沢登りで行くチトカニウシ山(1445.8m)
留辺志部川直登沢
及び熊の沢

 チトカニウシ山は山スキーの山として知られる。かなり雪質が良いと聞くがスキーの苦手な私にはあまり関係がない。リフトのない時代はこの山を目指してスキー列車が運行されたという。単に登頂だけを目的とするなら、GWなどの残雪期に国道333号線の北見峠から残雪を踏んで往復するのが容易であるが、「雪山は残雪でも恐い」という御仁が「沢登りで行けないものか」というので行ってみた。


★留辺志部川直登沢(登り)

 国道333号線から上越信号場へ入る枝道に入る。上越信号場は駅だった頃のなごりで小さな噴水の庭が残っている。駅舎は冬のラッセル基地となる為、現役である。信号場の脇にツェルトを張って泊まったが夜行貨物列車が結構通るので安眠は出来なかった。

 上越信号場を後に、林道を上流に辿る。JR石北線を越えると砂防ダムが現れ、林道は終るので右岸から越える。少し先に小沢があるので、そこからダムのバックウォーターに下り沢に入る。バックウォーター内が深みになっていると言うことはなく浅かった。留辺志部川はこの先ずっと函地形で暗い。河床はしばらく砂利だが1時間ほど行くと本物の函が現れ出す。どの函の先も低い滝になっている。岩は真っ黒の粘板岩でツルツルで非常に滑りやすい。自分の知る限り、北海道内では最も滑りやすい岩で、フェルト底ではフリクションの不足を感じる。

 785m標高点の二股は少し空が開けている。右を行くとまた函状の廊下になる。沢も小さくなり、腕を広げれば両岸に手が届きそうなほど函も小さいが、相変わらず滑りやすくツルツルなので面倒だ。高さも3mもないのに巻くことも出来ない。そして深さだけがある。

チトカニウシ山地図 その先で水流の小さい直登沢出合を見、それに入る。岩屑と小滝の沢である。1つ顕著な二股を右に入るとその上に4mほどの滝がある。一人で直登は出来そうで出来なく、左岸からロッククライミングでも頑張れば越えられそうだが、ショルダーが良いと思う。単独だったので右岸の大きな尾根まで広がる雪崩斜面を下の二股まで戻って巻いたので1時間もかかってしまった。沢に戻るとすぐ次の滝だ、と思ったのだが、直登沢の本流に戻ったつもりだったが、右岸の雪崩斜面のショルダーの滝の上で落ちる直登沢の980m二股の左股に下りたのを直登沢本流に戻ったと誤認して、そのまま遡行を続けてしまった。

 次はシャワークライムの15mの滝である。直瀑だが右寄りのしぶきのかかる所に殆ど垂直だが良いホールドが並んでいて簡単に登ることが出来る。この滝を「山と谷」に「1050m二股の先にある10mほどの滝があり、シャワークライミングを楽しませてくれる」とある滝と誤認して、まだ直登沢本流を詰めている気になっていた。一枚のチトカニウシ山北西斜面上で近接して並流する直登沢本流と左股は同じような標高に同じような滝があったということなのだと思う。携帯していた五万図では980m二股が等高線ではっきり描かれていないので、事前の「山と谷」を読んでの検討でもよくわかっていなかったのだと思う。


山頂から白滝盆地展望

 あとはすぐ水が少なくなり、ヤブを漕いで山頂を目指す。山腹ではそれほどでないが、北方の稜線は猛烈なヤブ漕ぎで、稜線に上がってから山頂までのヤブ漕ぎに時間がかかって直登沢を登ったにしては何かおかしいと思った。詰めで右寄りに漕いでいくのが良かったのだろうなどと考えていた。


★湧別川熊の沢(下り)

 昔の登山道が山頂辺りでははっきり残っていたので 下山に使って見た。すぐ不明瞭になり、背丈を越す笹薮となったが、かつての沼の原の寝曲がり廊下ほどはひどくはなく、山頂は後ろに見えていて、1250mの台地までは迷わず使えるだろう。目印テープなどはなかった。

 1250m辺りで完全に不明瞭になったので 適当に南東へ。足のつかないほどの寝曲がり竹の藪で登りでは大変なことになると思う。途中に、雪崩斜面の滑滝があり、フリクションが足りない感じがして下りるのに苦労した。860mの二股は水線のない右股の方が大きいが675mでは下って来た左の方が大きい。右股のすぐ上で潅木が流路に覆い被さっていて奥が見えず、いかにも人が通ってないという感じである。

 雪崩が多いのか、沢の中が汚い感じで、 倒木の後ろの土砂だまりが、踏むと抜けることが多く下らないことで消耗する。草の藪もかなり沢に覆いかぶさっている。豚沢とは言っても滝もあり、留辺志部川同様に岩はツルツルで歩きづらく、ワイルドな感じでイノシシ沢ぐらいには言ってもいい。

 JRの石北トンネルのすぐ奥の620mから車道がある。 ここには拾い切れないほど沢山のゴミが散乱していて感じが悪かった。車道は水溜りが多い。

 「山と谷」の車道の入り方の説明は分かりにくいが 旭川側から線路をくぐってすぐの林道に入り100mほどで広い土場に出る。この土場は国道から真横に見えている。 その土場から、まっすぐ土場を横切る「尾根に登って行く道」と、土場の北側に沿って伸びる、熊の沢アプローチの道に分かれている。


★山名考

 村上啓司(1980)は「チ(われら)ト゜カン(射る)ウ(習い)イ(所)、いつもそこで矢を射る所と直訳されるチト゜カヌシが原名だろう。」とする。山田秀三(1984)は「チトゥカンニウシ(chi-tukan-ni-ush-i 我ら・射る・木・がある・処)」としている。

 更科源蔵(1966)の「チ・トカン・イ・ウシ(吾々がいつも射るところ)」は、しばしば引用されるが語順の怪しい解釈である。更科源蔵(1982)は「チ・トカン・ウ(吾々がいつも射るところ)」としている。後者でも、最後に名詞に相当する言葉がないのに「ところ」としているのは多少疑問が残る。トゥでなくトにしているのも気になるが、単語毎に切る際に「ウ」のシを小文字ではなく大文字にするか、ウの後ろにイを補った方が、名詞句となるので適切であったように思われる。

 村上啓司(1980)でも山田秀三(1984)でも、地名アイヌ語小辞典の tukan の項にある「弓占」のことが書かれているが、コタン近くの祭場等なら兎も角、深い山間で本当に弓占を「いつも」したのかどうかというのがどうも疑わしいような気がする。

 永田地名解に5つあるチトゥカンの地名の全てがそうだとは言えないかも知れないが、チトカニウシ山の場合はシットゥカリウシ sir tukari us -i[山・の手前・につく・もの]といった、その名が奥山の直前にある事を指していた川があって、その水源の山として呼ばれたのが sir tukari us nupuri[山・の手前・につく・(川の)山]と言われたのが、川の名の内に訛ったか、山の名前になってから訛ったのがチトカニウシで、sir tukari us -i 等の川の名が忘れられてしまっていたという事ではなかったかと考えてみる。

 今のチトカニウシ山の位置が本来のチトカニウシ山と同じであったかどうかには疑問がある。安政4年の松田市太郎の実踏の記録を見ると、アンダロマ(安足間)の辺りから石狩川本流に沿って上って、層雲峡温泉の手前にかけて左手を何度もチトカニウシなどと呼んでおり、チトカニウシ山はニセイカウシュッペ山のような印象である。

 同じ頃の松浦武四郎の記録は聞き書きだが、湧別川の上流についての手控を見ると、「山越石狩ルベシベへ」の小川ルクシヘツを右に分けて更に上流で「ヲロカユウベツ此源チトカニウシ。此山うら石狩高山の上」とあるので、有明山か天狗岳がチトカニウシのような印象である(翻刻の頭注では天狗岳としている)。留辺志部川上流についての手控でははっきりしないが「此河源右チトカ子ウシ、またユーヘツの源岳よりも来るよし也」とあるのは、大きな左岸支流を含めた留辺志部川流域の下流側から見て右寄りにチトカ子ウシがあるということで、ニセイカウシュッペ山から有明山にかけてにチトカ子ウシがあった印象である。手控の絵図で石狩川とルヘシベの股の間にチトカ子ウシを描いているものもあり、上越より上流の留辺志部川の「右」手にチトカ子ウシがあると言っていると考えるのは、考え過ぎと言うことになりそうである。松田市太郎の記録にも松浦武四郎の記録にも「ニセイカウシュッペ山」に通じる山の名は出てこないようである。

 松浦武四郎の聞き書きの手控ではもう一つの川筋でチトカニウシ山らしき山名が出てくる。現在の渚滑川筋である。「チトカンニウシノホリ、此山より西え落るは石狩ルウサン(ルベシベ)へ落る。南東はユウヘツへ落、北東え落てシヨコツえ落る也」とあり、この記述の当てはまるのは現在のチトカニウシ山の位置しかない。チトカニウシの名の山が複数あったかとも考えてみたが、現在のチトカニウシ山と天狗岳・有明山では、同名で呼ばれるには近接し過ぎているように思われる。

 松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図ではチトカンニウシが、現在のチトカニウシ山の位置の印象を受ける位置に記されている。取調図の下図の一部と見られる手控の川々取調帳では「チトカニノポリ」がルベシベの最上流やや右寄りに書かれ、松浦武四郎としては取調図でもう少し南に彫って欲しかったようにも思われる。

 明治29年の北海道実測切図では現在の位置に「チト゜カニウシュ山」とある。これで現在の位置に固定化されたと思われる。

 チトカニウシの名の発祥の地を考えてみる。広がりがニセイカウシュッペ山から現在のチトカニウシ山なら、中央付近の天狗岳・有明山から拡充されたかと考えてみる。天狗岳・有明山からその奥でより高いニセイカウシュッペ山に広がるのはありうるように思われる。チトカニウシの名が高山として有名になれば、直接接していない渚滑川筋でニセイカウシュッペ山よりは天狗岳・有明山に近い現在のチトカニウシ山の位置までチトカニウシの名が拡充されるのもありうるように思われる。天狗岳・有明山は北見峠のすぐ南の位置である。留辺志部川の名は道が沿っているものであることを指すアイヌ語に由来する。松浦武四郎の手控にヲロカユウベツと書かれた湧別川本流と目される「有明の沢」とその水源の「天狗岳」をチトカニウシとする、松浦武四郎の安政5年の手控の翻刻の、秋葉實(2007)の頭注を大体に於いて支持したい。或いは、天狗岳ではなくより高く同様に有明の沢の水源になっている有明山か。アイヌ語の元の意味は石狩への入口である北見峠に向かう熊ノ沢の沢筋から見るとその手前にあるチャットゥカリウシ car tukari us -i[口・の手前・につく・所]でなかったかと考えてみる。car tukari us -i の転訛がチトカニウシと考えた方が、sir tukari us -i より指す意味がはっきりするように思われる。メナが上方と見られるらしいことから、入る口は湧別川側からと考える。

 松浦武四郎は安政3年に樺太のクシュンナイ越でチトカンヌシの弓占いについて聞いて記している。安政5年の日誌での、手控に見られない湧別川水源のチトカ(ン)ニウシの山の弓に関する記述は、チトカンヌシからの類推だったのかも知れないと考えてみる。だが、樺太のチトカンヌシもクシュンナイ越という、山越えの中の地名である。アイヌ語地名の語源を気にしていたらしい松浦武四郎だが、湧別川筋以外の留辺志部川筋や渚滑川筋でもチトカニウシ/チトカネウシ/チトカンニウシの語源についてはアイヌの人に聞けなかったのか、手控にも日誌にも記していないようである。

 ci= tukan us -i/〔ci= tukan ni〕 us -icar tukari us -i ではアクセントの位置が異なることがありそうである。前者は第二音節で、後者は第一音節となりそうである。ci- tukan us -i[される・射る・いつもする・もの(川)]と考えると第三音節になりそうである。語が続くとアクセント核の位置が変わることがあるようだが、car tukari でアクセントが第二音節となることがあるのかどうかよく分からない。アイヌ語入門には第二音節にアクセントがある ketanasi の語源が key-tanas-i とされているので、なることもあるのか。第一音節から変わらないとして、聞く方がアクセントが異なっていても、ca が ci に、r が n に転訛して同種子音の連続が一つになれば第二音節の ci= tukan us -i などの意味で聞けるのかどうかもよく分からない。或いは湧別川筋でも留辺志部川筋でも渚滑川筋でも手控に射る事に関する語源説が書かれていないのは、当時のアイヌの人には ci= tukan us -i などとは捉えていなかった人も居たのではないかとも考えてみる。

 チトカニウシという山の名の発祥の場所について、更に考えたい。

参考文献
北海道の山と谷再刊委員会,北海道の山と谷 下,北海道撮影社,1999.
村上啓司,北海道の山の名12,pp78-81,38,北の山脈,北海道撮影社,1980.
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更科源蔵,アイヌ語地名解,北書房,1966.
更科源蔵,アイヌ語地名解(更科源蔵アイヌ関係著作集Y),みやま書房,1982.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
松田市太郎,安政四年イシカリ川水源見分書,旭川市史 第4巻,旭川市史編集委員会,旭川市役所,1960.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
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北海道庁地理課,北海道実測切図「無加」図幅,北海道庁,1896.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集3 辰手控,北海道出版企画センター,2001.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 中,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.



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(2002年8月26日上梓 2003年4月15日修正 2017年6月5日山名考改訂 6月21日山名考改訂 2021年11月23日地図書き直し・改訂)