札滑岳(さっこつだけ)の位置の地図

札滑岳
上興部市街から

札滑岳(992.7m)
札滑川六線の沢

 ウェンシリ地塁は日高山脈より先に隆起したようである。地形図で見ると南隣のウェンシリ岳の弟分のような感じがするが、上興部の集落から見ると非常に堂々として、かつて二度も道がつけられていたというのもうなづける。しかし、上興部を支えてきた石灰鉱山も閉山し名寄本線も廃止され人口の減った上興部で登山道が維持されなかったのも仕方がなかった気もする。西側の下川町から登った方がヤブは濃くても時間的に短いかと考えたが、上興部から仰がれ、登山道が付けられたということで、西興部村側からの登山にこだわってみた。


札滑岳広域地図 いわゆる豚沢で何もない(2mの滝1つで簡単に巻ける)。最後のヤブ漕ぎも北面なのでかなり薄くて楽だ。下の河原の長いのが難。

 車道は地図上のところですっぱりと途切れ、牧草地になって終わっている。牧草地を少し横切って入渓。すぐに二股になっている。

 河原と言っても乾いた石が出ているわけではなく、ゴロゴロした石の浅い河床を歩いていくが、粘板岩の石が非常に滑りやすく、足を置くとグズグズ崩れて歩みを止める。堆積岩である粘板岩はフェルト底、スパイクで滑るのみならず、石同士の摩擦も非常に少ない気がする。しかし手で触るとつかみやすい。

 水面の周囲は寝曲がりだったりイタドリやフキの林だったりするが、わりと鹿の道がある。こんな単調でややくたびれる歩みを約1時間、標高440m付近では国境稜線までの標高差が僅か40mほどまで下がり、沢の中とは思えないほど明るくなる。紅葉もグッド。

六線の沢地図

 その手前まで割れた茶碗や植木鉢が落ちていることがあり、かつてはその辺りまで人家があったのか。また標高500m付近から角度が加わってくると、よほど環境が適しているのかイラクサが多く、あちこち刺されて大変だった。一回雪が降って全て草が倒れてからの時期の方が快適に歩けるだろう。それか山頂近辺にまだ雪が残る頃だろうか。豚沢なのに標高のわりに時間がかかったのは石の滑りやすさもあるが、イラクサのせいだ。

 水が切れるとイラクサはなくなり、傾斜のゆるい疎林のシダの斜面を登る。忠実に沢地形を辿ると右寄りになり、それに従うのが良い。山頂へ中央突破はかなりの密度のヤブ漕ぎになる。

 少々のネマガリタケのヤブを漕ぐと920mほどの西の肩に出て中程度の潅木のヤブを分けていく。山頂はヤブに埋もれて三角点があり、昔の登山道は感じることが出来なかった。西側が潅木林、東側が草原でウェンシリ岳の山頂とそっくりな雰囲気だ。

 ガスで展望は残念ながら得られず。残雪期にでも晴れた日を狙ってまた行きたい。

 このコースは平地部分の鹿道の不明瞭な部分の笹を刈り分ければ、わりと簡単に登山道化することが可能と思われる。ヒグマの多そうなところだが、特に痕跡は見なかった。

 登山道は昭和7年と昭和46年に作られたという。昭和7年の時は登りと下りでルートが分けられ、展望台なども設けられたという。


その他のコース


上興部駅跡の
キハ27

上興部駅
駅名票

旧駅舎
名寄本線の資料館に

★山名考

  札滑(さっこつ)の岳、或いは札滑川の水源の岳の意と思われる。

 「札滑」について考える。

 アイヌ語地名「サッコツ(或いはサッコッ/サツコツ)」が記録されたのはやや新しいようである。明治29(1896)年の「北海道地形図」に「サッコツ」と札滑川があるのが古いようである。明治30(1897)年の北海道実測切図には「サッコッ」と札滑川がある。

 興部川は班渓川落ち口の上手から上興部の上手まで、ずっと幅300〜600mの底の箱形の広い谷を持ち、その中を蛇行しながら流れている。札滑川の本流である興部川を少し下流から遡って札滑川がどう見えるか考えてみる。

興部川の地図1興部川の地図2

 西興部村の中心にあった西興部駅は昔は瀬戸牛駅であった。500〜800mの幅を殆ど変えずに直線的に連なる興部川の谷が60度ほど明確に曲がる所にある。そこで忍路子川が細い鼻をもって鋭角に興部川に合流している。忍路子川は松浦武四郎の安政5年のフィールドノートである手控にヲコツベ(興部川)の支流として聞き書きで「ヲシュルクセトシ」とあり、その地形から o- 〔sir-ik us etu〕 us -i[その尻・見える空間の・関節・にある・鼻(岬)・につく・もの(川)]と考える(或いは sir-ik ではなく sir iki[見える空間・の関節]か)。

 興部川を遡ると右岸から七重の沢が合わさる。興部川の水流が左に曲がる所で合流し、その内側に沿って流れている aw ne -i[内・である・もの(川)]が七重の語源と考えてみる。

 更に遡ると右岸から一滑の沢が合わさる。一滑は「イッコツ」と読むらしい。コツの音が札滑と共通しているのが気に掛かるが、何を指しているのかよく分からない。左岸からも支流が入っているが、アイヌ語かと思われる川の名が伝わっていないようなのが気に掛かる。

 上興部が近づくと谷が少し拡がる。谷は二股になって興部川本流と札滑川を分ける。札滑川の谷は興部川本流の谷よりは小さいが、8割分くらいはありそうである。それまでの支流の谷の幅は水流相応の細いものだが、札滑川の谷の幅は興部川本流の谷同様に水流に比してずっと大きい。

 この、見える空間(谷間)が二股になっている所にある川である事を言った、sir-aw kat[見える空間の・股・の辺]の訛ったり約まったりしたのがサッコッではなかったかと考えてみる。但し、kat を「辺」の意でアイヌ語辞典で見たことがない。見たのは永久保秀五郎のアイヌ語雑録にあるという「カッ」で、意味は「辺(へん)」とされているが、どういった「辺」なのか、品詞は何なのか、よく分からない。位置名詞で「そこらへん」の「辺」と考えると、札滑の地形に合致するように思われるので、そう解釈し、意味をイタリックで表記しておく。アイヌ語辞典で kat[かっこう;有様]は普通名詞とされているが、aw のように普通名詞なのか位置名詞なのかよく分からない言葉もあるので、位置名詞として kat と考え、イタリックで表記しておく。

 だが、見える有様の股の辺りの支流だったとしても札滑川は大きな支流で、興部川本流が天北峠に抜けていることがなければ、本流扱いされることもありうる大きさの川である。そのような大きな支流を視界の股の「辺り」というだけで右岸支流と特定するのは難しいのでないかと思う。

 札滑川上流に察来橋(さっくるばし)があるという。ウェンシリ岳の山頂に置かれる三角点の名が「察来岳」であり、sak ru[夏の・道]は札久留峠だけでなく札久留峠を北側に下りて藻興部川上流を遡りウェンシリ岳北東方で山越えして札滑川流域に抜けて興部川に落ちる所までで、アイヌ語のラ行音をダ行音のように破裂を強く発音する人もいるということで SAKDU のように聞こえたのがサッコツではないかと考えてみる。札滑川落ち口上手の札滑チャシは天北峠から興部川沿いに下ってくる者が札滑川の方に入ってこないように見張るチャシでなかったと考えてみる。

 一滑の沢は、札滑川中流からわずかの丘陵を越えて入れる1)ことが指摘される。「いっこつ」は rik kat[高い所・の辺]の転で、冬道として使う定高性の尾根への出入り口となる高い所の辺りの谷筋であることを言ったのではないかと考えてみる。或いは源頭が冬道の入口に接する所ということで par kat[口・の辺]の転訛かも知れないとも考えてみる。par は pir に転訛することが多いように感じている。アイヌ語地名で語頭の p が、イソパケ・イタラ・エトワンのように落ちることもあるようである。だが、一滑の沢源頭の鞍部から高い所を通って、鬱岳方面に抜ける冬道だろうと思うのだが、藻興部川の川端に出るまで地形が複雑で、単に尾根伝いしては遠回りで登り返しも多く、低い谷を何度も横断して直線的に結ぶには枝谷を出たり入ったりが多くて道筋を覚えられそうになく、冬道の道筋を推定できない。

・カムイシリ?

 札滑岳を伊藤せいち(2003)は kamuy-sir[神・山]としているが、違うように思われる。すぐ南により高いウェンシリ岳があるからである。挙げられた3つの「カモイ」の資料を見てみる。

 松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図(以下、取調図)は、ヲコツヘ(興部川)とモヲコツヘ(藻興部川)とルロチ(瑠椽川)の水源の、名寄川上流域の東に「カモイシリ」の山を描いているが、山は一つである。また「エイシリ」がヲシカリシヤラ(思沙留川)の水源でシヨコツ(渚滑川)の中程の北に大きく描かれ、伊藤せいち(2003)はこれをウェンシリ岳とするが、松浦武四郎の戊午の日誌のシヨコツ川筋を見ると、エイシリはサトサツナイ(鴻輝川)の10丁ほど上でヲワフンベナイ(和訓辺川)より15〜18丁ほど下流に「椴木立山」と書かれているので、渚滑川に150mほどの高さの山が迫っている所のことであり、遠目の大き目に見積もってもその西北西の414.8m三角点峰辺りで、ウェンシリ岳とは無関係と思われる。

 札滑岳とウェンシリ岳辺りの山に「カモイ岳」と振る明治20(1887)年の改正北海道全図は、その南東の天北国境近傍に「エイ山」を振るが、この辺りに関しては周辺の川を合わせて見ても取調図での「カモイシリ」と「エイシリ」の位置関係を踏襲した不正確なもので、ヲコツヘ川の水源の山はカモイ岳一つである。明治27(1894)年の「カモイ岳」とある北海道同盟著訳館の北海道図は、明治24(1891)年春に北海道庁が新たな測量の荒増の見通しが付いて印刷したのではないかと高倉新一郎(1963)によって推定されている北海道図を原図としているようである。明治24年のものらしい原図の北海道図も、この辺りの位置関係は取調図の踏襲で、ヲコツヘ川の水源はカモイ岳一つしか書いていない(「エイ山」は「タッシ岳」となっている)。興部川の水源の山として、札滑岳かウェンシリ岳か、どちらかの山を載せるなら、150mほど標高が高く、山体も大きいウェンシリ岳が優先されるように思われる。

 西蝦夷日誌の頭注では、ヲコツベ(興部川)の上の「カモイシリ岳」をウェンシリ岳としている。

 札滑岳はカモイシリでは無かったと考えておきたい。

参考文献
平川一臣,北海道の地形発達史,日本の地形2 北海道,小疇尚・野上道男・小野有五・平川一臣,東京大学出版会,2003.
西興部村史編纂委員会,西興部村史,西興部村役場,1977.
伊藤せいち,アイヌ語地名2 紋別,北海道出版企画センター,2006.
北海道内務部地理課,北海道地形図,自治堂,1896.
北海道庁地理課,北海道実測切図「名寄」図幅,北海道庁,1897.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
萱野茂,萱野茂のアイヌ語辞典,三省堂,1996.
中村一枝,永久保秀二郎の『アイヌ語雑録』をひもとく,寿郎社,2014.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 中,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
内務省地理局,改正北海道全図,内務省地理局,1887.
高倉新一郎,明治以降の北海道測量史,北方文化研究報告9,北海道大学北方文化研究室,思文閣出版,1987.
北海道図.(北海道同盟著訳館版でない推定明治24年道庁版)



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(2003年10月2日上梓 2017年5月17日山名考改訂 2022年8月30日改訂)