永田岳の位置の地図

永田岳

永田岳(1886m)

 屋久島第二の高峰であり、奥岳でありながら山麓の永田集落から望むことが出来る。しばしば「宮之浦岳の女性的な美しさに対して男性的な」と語られるが、近くで見ると男女云々以前に人間的でない山容だと思う。当頁ではでは宮之浦岳からの縦走路と、西側の鹿之沢小屋からの登山道を扱う。鹿之沢小屋までの花山歩道についてはこちら。永田歩道は歩いたことがない。第4ピークである「ネマチ」にも登ってみたい。


★永田岳〜焼野三叉路(宮之浦岳・縄文杉方面)間縦走路

 1997年には、焼野で道が分岐して永田岳に向かうと深い雨裂に笹がかぶり、鹿道と区別のつかない状態だったが、2002年10月には雨裂の外側に新たに刈り分けがなされ、わかりやすくなっていた。登山道幅の拡大というのはオーバーユースの典型ではないのかと思ったが歩き易くなった。ヤブに隠された古い雨裂に落ちて怪我しないように注意を要する。途中に水を汲める所はある。

永田岳地図 このルートの途中でモグラが盛り上げた土の高まりを見かけたことがある。元々すぐ下が岩盤な上に、雨が多くて土も流れやすくて薄い土壌だろうによく頑張って土の下で生きていると思った。また、ミミズも見た。白い花崗岩の風化したマサをそのまま映したようなピンク色のミミズを美しいと思った。


★鹿之沢小屋からの登山道(下り情報)

 永田岳を後にして見晴らしの良い笹原の道を下っていく。上部では道は荒れているということはない。中ほどの、「前野」と呼ばれるローソク岩がよく見える平坦地の先で、踏み跡は露岩にまっすぐ続くが「この先行止り」の看板があり、露岩の先には踏み跡がなかった。 

 道は看板の手前で左の崖を下りて下に続いているのだが分かりにくい。ここから下は、雨裂が大きくなり、荒れている雰囲気になるが、ヤブがかぶっていると言うようなことはない。化粧岩屋は鹿之沢小屋のすぐ上にあるらしいので注意していたが、分からなかった。


★山名考・地名考

 永田岳の名は永田集落に由来するようである。

 「永田(ながた)」について考える。

 永里岡(1988)は平安時代中頃に編まれた和名抄にある大隅国馭謨郡の「謨賢」を「むかた」と読んで永田のことではないかとし、「むかた」は「牟方」であって、牟は牟田の略であって、牟田は沼と同義で、方は場所で、永田川沿いの水はけの悪い堆積地の低地を指した「沼地の場所」ということではないかとする。

 牟田はヌタなどと同源かとされ、ヌタは「沼・処」の語源説がある。沼方でもムカタになることがあったのか。永田の水田は屋久島で最も規模が大きいようである。

 だが、永田のランドマークは永田川を少し遡った沼地よりは、白砂の美しい長く続く永田浜の辺りではないかという気もする。「ながた」とは、まっすぐな永田浜の裏手の塞がることもあるという永田川の永田浜の裏手の辺りを、外海につながる湖沼として「なほ(直)・かた/がた(潟)」と言ったものかと考えてみる。「がた」で砂浜を指す方言が熊本県苓北町の辺りにあるというので、まっすぐな永田浜そのものを指しての「なほ(直)・がた(潟?)」の約まったものではないかとも考えてみたが、永田の北側にある「いなか浜」もまっすぐである。或いは両側が水域の永田浜と、片側だけが海のいなか浜とは扱いが違ったのかとも考えてみる。

 「沼方(むかた?/ぬがた)」と「直潟」の折衷で、永田浜の後背の「沼潟(ぬがた)」も考えてみる。「沼方」より描写がはっきりするのではないかと思う。だが、「直潟」と「沼潟」のどちらかに決められない。

・焼野

 焼野の笹原が宮之浦岳の南側などと何か焼けた跡のように違うとは見えなかった。宮之浦方面から登ってきて宮之浦岳方と永田岳方に分岐する「わけ(分)・ど(処)」の転が「やけの」と考える。

・七ツ渡し

 七回の渡渉ではなく、永田方面から登ってきて傾斜が殆ど無くなる所での渡渉ということの、「なる(平)・と(処)・わたし(渡)」の転が「ななつわたし」と考える。


神様のクボが甕様な地図

・神様のクボ

 永田岳西面の谷は「神様のクボ」とされるが、神様ではなく、周辺の他の谷筋に比べて入り始めてしばらく(標高1300〜1450m)で、傾斜が緩くなって谷筋が広がるが、広がった谷筋の外側と標高1550〜1600m辺りまでの側壁と谷頭が立っていて瓶の底のような「甕様(甕/瓶のような有様)のクボ(谷)」の転訛と思われる。

・ネマチ・ネマチのクボ

 永田岳支峰のネマチは、岩が凝結したような山容であることから、凝ることやシコリを表す「ねまり」の転訛ではないかと考えていた。すぐ下手に「ネマチのクボ」があり、特徴的な山であるネマチに上がる谷だからネマチのクボと呼ぶこともあるのかと思っていた。


ネマチのクボ断面模式図
下流側から見て

 だが、多くの山の名は川や谷の名が先で、その源頭とか上の山と言うことで川や谷の名が山の名となる。考え直して「屋久島の山岳」の「ネマチのクボ」の溯行記録を読み直してみた。

 ネマチのクボの中は、右岸は延々と障子尾根から落ちる岩壁が続き、左岸は牧歌的な山の斜面が広がるという。国土地理院のネット公開している航空写真でも、はっきりとは分からないがネマチのクボの「クボ」筋の北側に岩盤の露出が続いているのが見える。

 ネマチのクボのネマチとは、山の末端に切り立った岩壁が続く「根(ね)・区(まち)」か、「根(ね)・襠(まち)」ではないだろうか。或いは「ネ」は根ではなく嶺か。山のネマチは根区か根襠のクボの源頭の山だから、ネマチと呼ばれたのではなかったか。

 屋久島の方言で釣り針の先端の「もどり」を「まち(区)」という。九州南部では魚を突くヤスの「もどり」を「まち(区)」という。全国的には「まち(区)」は刀剣の刃や棟と中子との境の段になっている所である。普通なら山の斜面がそのまま斜めに下りてきて谷となるのに、ネマチのクボの右岸は障子尾根の山の斜面から下端で岩壁という垂直の段を挟んでクボ筋となる。


寝待の岬付近の地図

 衣服などの幅の足りない部分に補い添える布を「まち(襠)」といい、厚みを補うなどの為に加えられる。ネマチのクボの断面を考えると障子尾根の斜面が斜めに下りてきて、高さが足りないから下端で岩壁になって垂直に補っているように見えるクボである。

 マチを「区」と捉えるべきか、「襠」と捉えるべきか、区と襠は幅や高さの差の分という意味で、「間地」の同根ではないかという気がする。「待ち」も時間の差の分で、「待つ」が「『間』をする」ことの意味で同根ではないかという気がする。

 口永良部島の寝待温泉の東の寝待の岬も、暗礁を根と言った「根・区/襠」ではないかと考えてみたが、地形図やネット上の寝待温泉からの写真や衛星写真(GoogleMap)を見ても岬のどこがマチにあたるか説明できない。岬そのものではなく、岬の西側の寝待温泉の西側か岬の東側か、どちらかの或いは両方の海岸から100mの高さでそそり立つ断崖が、野池から下りてくる山の斜面が海岸間近になってストンと切れて落ちてしまう嶺区/根区(ねまち)で、その傍の岬が寝待の岬ということではなかったか。

 日本百名山の荒島岳の登山道の尾根上や三周ヶ岳にある急斜面の「餅ヶ壁(もちがかべ)」の「餅(もち)」も、急峻で垂直近くに立ち上がっている斜面を指して「まち」と言ったのが訛って「もち」になっているのだと思う。

参考文献
太田五雄,屋久島の山岳,八重岳書房,1997.
永里岡,屋久島の地名考,永里岡,1988.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
小学館国語辞典編集部,日本国語大辞典 第2版 第12巻 ほうほ-もんけ,小学館,2001.



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(2004年3月20日上梓 2017年7月21日URL変更・神様のクボ追加 8月7日山名考等追加)