黒味岳の位置の地図
黒味岳の地図
黒味岳 (1831m)
くろみだけ

 屋久島三岳の一つに数えられるものの独立した山として実態のない栗生岳に替わって、三岳の一峰として数えられることがあるようだ。「ミタケ」の韻もふんでいる。しかし「三岳」自体が「御岳(みたけ)」の異分析で、屋久島を代表する山を三つに絞ろうとする必要は無いのではないかと思う。山頂からの眺めは小楊枝川支流オオニタの谷をはさんで宮之浦岳と永田岳がそびえ、屋久島随一の山岳展望だ。


★登山ルート


山頂まであと少し

宮之浦岳から見た黒味岳

 山頂へは宮之浦岳淀川登山道の途中、花之江河を過ぎて1つ目の鞍部「黒味分れ」から西に稜線を辿る。分岐には標識がある。登る人も多い。はじめは樹林内だが山頂が近付くに連れ、低木の偽高山帯になり、山頂は大きな露岩である。左手(南側)からぐるりと回りこんで巨岩の上に立つ。一ヶ所、下の方でロープがある。宮之浦岳日帰り往復でも長丁場になるが、行きしに寄りたい。これから歩く宮之浦岳までの道のりがよくわかる。南西の海側には栗生川河口沖合の「七瀬」が山頂から見える。


★山名考

 海岸沿いの集落の名前が付けられる例の多い奥岳の山にあって、対応する「黒味」集落は見当たらない。「黒味」は栗生集落の村はずれの、黒味川が栗生の緩傾斜地から急斜面の山に入ってすぐの黒味川右岸の山の斜面の辺りの小字名である。黒味のすぐ南側を流れる「黒味川」は栗生集落の小字黒味の少し下で小楊枝川と合流して栗生川となって東シナ海に注いでいる。だが、黒味岳は黒味川の源頭ということはなく、黒味岳は小楊枝川の源流に囲まれていて、黒味川は花之江河にも達していない。

 中島成久(1998)は、黒味岳の由来を修験道で高千穂神社主神の坐す山を「きんなり山」またの名「くろみ山」と称することに因むのではないかと言う説と、明暦の頃の作成とされる屋久島大絵図に黒味岳付近に「黒御岳」と振られていることによると言う説を挙げている。


花之江河から
見上げる黒味岳

 屋久島の岳参りの習慣には修験道の影響のように思われるものがあるように思う。だが、山岳信仰として根を同じくするだけのようにも思われる。

 屋久島大絵図には黒味岳と思しき位置に「黒御嶽」の名が記載されている。描かれる位置も川筋も山容も黒味岳と合致している。この絵図には「黒味川」の記載はなかった。この黒御嶽が黒味岳を指していると考えても、黒味岳が他の奥岳の山と比べてどう黒いかと問われれば何か違う気がする。黒味岳は宮之浦岳や栗生岳、永田岳に比べれば笹で覆われている面が少なく、針葉樹など常緑樹が多いような気はするが、だからと言って他の御岳がいずれも山麓の集落の名を戴いているのに、この山だけ色で名付けられるものだろうかと思う。

 栗生小字黒味の地名が先ずあり、そこを流れる川の名として黒味川があり、栗生(芋生)からの岳参り道のあった小楊枝川の斜面や栗生岳(芋生御嶽)から見て、地形が複雑で中程に溯行困難なケヅメのある黒味川の水源であろうと目されての、「黒味(川の)嶽」が、偶々ミタケの韻を踏む事になって「黒御嶽」と記されたのではなかったか。

 栗生では花之江河の水が栗生川の源流の一つと考えられていたことが、屋久町郷土誌(1993)にある栗生の岳参りの「この花之江河は下流へ何キロも続き、ついには数百尺の滝となって、栗生川に合流している」との記述から窺える。数百尺の滝とはケヅメの滝場のことだろう。黒味岳山頂に岳参りの祠が見当たらないのも、古い地図で黒御嶽と書かれても御嶽の実態がなかったということではなかったか。花之江河はそれだけで参るに足る感じのする神秘的な場所である。御嶽(みたけ)が「三岳」と書かれたのも単に音が同じというだけではなく、黒御嶽という文字で表される第四の御嶽は無く、宮之浦御嶽と永田御嶽と芋生御嶽(栗生御嶽)の三山が「ミタケ」であったという意識のあらわれでもあったということではなかったか。

参考文献
五代秀尭・橋口兼柄,三国名勝図会,山本盛秀,1905.
屋久町教育委員会,屋久町誌,屋久町教育委員会,1964.
屋久町郷土誌編さん委員会,屋久町郷土誌 第1巻 村落誌 上,屋久町教育委員会,1993.
中島成久,屋久島の環境民俗学,明石書店,1998.
太田五雄,屋久島の山岳,八重岳書房,1993.



トップページへ

 資料室へ 
(2004年2月24日上梓)