由良ヶ岳の写真
宮津市由良から

舞鶴市下東から

宮津市の
小田宿野から

天橋立の
磯清水付近から

由良と由良ヶ岳の
間の湿地
後ろは丹後由良駅・槙山
由良ヶ岳 (ca.650m)
ゆらがたけ

 安寿と厨子王の伝説などで知られる丹後は由良の山。丹後富士・宮津富士といった呼び名でも知られる、由良ヶ岳は北側の宮津市側から登られることが多いようだが、南の舞鶴市側からの登山道もある。舞鶴市上漆原鎌倉からの道で、真奥大滝という大きな滝が登山口からすぐの所にあるが地形図に載っていない(2008-11年現在)。地形図にあるのは由良からの道の他に西峰への嶽からの登山道と、上石浦から東峰への登山道だがどちらも廃道に近い(2012年現在)。上石浦からの道は途中で地形図に無い下石浦からの道と合流していた。

 由良ヶ岳は石祠と展望のある東峰と三角点のある西峰があるが、東峰の方が僅かに高い。東峰が昔から尊ばれた由良ヶ岳の本峰で最高点である。明治時代の地形図には西峰に640.1m、東峰に648.1mと書かれていた1)。国土地理院の二万五千分一地形図と五万分一地形図の等高線は今(2011年現在)でも東峰の方が一本多い。現地の古い標識などでは東尾根上の三角点「東由良ヶ岳」の標高である585.1mを東峰の標高として表記しているが、これを東峰の標高とするのは地形図が読めない人の誤りだ。明治の東峰の648.1mという標高の値は古い測量なので多少の変動はあるかもしれないが、等高線の密度や東峰に立ってみての西峰を見下ろす感、標高の変動が約0.1mの基準としての西峰の三角点の近さを考えるに645mを下ることはないだろう。当ホームページでは由良ヶ岳の標高を「約650m」としておく。また、地形図には上石浦からの登山道が東の尾根上を辿り、三角点「東由良ヶ岳」上を通るように描かれているが、登山道はこの三角点のコブを北側から巻いており、三角点の上を通っていない。

 東峰の石祠は虚空蔵菩薩のものである。由良にある熊野三所権現(現・由良神社)の別当寺であった由良山如意寺の奥の院にあたり、数え13になると由良ヶ岳に登り、知恵の菩薩である虚空蔵菩薩に参る十三詣の風習があった2)という。


★山名考

 丹後富士の名は上漆原の鎌倉地区から眺めた由良ヶ岳の富士型によると言う説3)がある一方で、天橋立近くの丹後国分寺跡付近からの由良ヶ岳が富岳に例えられるにふさわしいとの説4)もある。江戸時代の幕府による丹後風土記は舞鶴からの呼称としての由良ヶ岳の「丹後富士」を伝える5)。建部山や高竜寺ヶ岳も丹後富士だという。宮津富士とも呼ばれると言う。

 丹後国分寺跡よりもう少し北に寄った栗田半島から栗田湾越しに望む場合に、それなりに聳えて頂稜が平らな富士形に最も近くなる。舞鶴からの呼称としての丹後富士は舞鶴から宮津へ向かう宮津街道の大船峠を越えてから見える、鈍角ながら頂の絞られた山らしい姿の由良ヶ岳を指して呼んだのではないかと思う。丹後国分寺跡・天橋立から見た由良ヶ岳は栗田半島基部の山並みの山中峠の鞍部に頭を覗かせているが、形は凡庸で手前の栗田半島から杉山に掛けての手前の山並みに対して高さで抜きん出ている感に乏しい。

・ゆら

 ユラという地名は風波に砂が淘り上げた地形(=砂丘)を指すとも言われ、そうした地形は由良の街中に見られる。丹後由良駅の駅前から真っ直ぐ海に向かうと、海岸の手前で地面が高まっているのが分かる。かつての浜堤で、家並みの中の小さな畑もそれより浜側の松原の海岸と同じ揺り上げられた砂地である。新古今和歌集の曾禰好忠の「由良の門をわたる舟人かぢをたえゆくへもしらぬ恋の道かも」の由良は、好忠が丹後掾であったことから、ここ丹後の由良とする説がある。

 以前は丹後由良・淡路由良・紀伊由良・伊予の興居島の由良のような浜堤のユラは「揺る畔/畦(ゆるあ/ゆら)」か「揺り畔/畦(ゆりあ/ゆら)」ではなかったと考えていた。日本語には母音が続いてあらわれるのを避ける傾向があり、一つが脱落することがある。河川でも但馬養父の自然堤防上の由良や、香住の自然堤防の付け根の油良、後背湿地の奥の丹波氷上の南北油良もゆりあげた自然堤防を指す「揺る畔」か「揺り畔」に因るのではなかったかと考えていた。畦/畔は水田(地域によっては畑も)の境として土を細長く盛り上げた所を指し、現代では「あぜ」や「くろ」と呼ぶが、古くは「あ」と呼んだ(アゼは「あ」の背か)。「あ(畔)」は水田の付属物だったのではなく、元は内側に淡水なら水田耕作に使われるような沼沢地を広げて仕切る細長い微高地である浜堤や自然堤防などを指し、その中でも風波が揺り上げたものを「揺る畔」「揺り畔」と呼んだのではなかったかと考えていた。丹後由良と淡路由良は浜堤であり、紀伊由良も現在は掘込港となっている場所に昔は浜堤と潟湖があった。

 だが、風波のような安定しない作用の淘り上げた具合を地名を付けるタイミングで認識するだろうかという気がする。風波で削る作用もまたある。丹後由良などは地質学的には揺り上げられたものだとしても、ずっと安定しているから人が住んでいるのだと思う。最後が沼沢地を仕切る細長い微高地を指す「あ」の名詞句であることには変更はないが、風波が「揺る」というのは違う気がしてきた。


丹後由良の浜堤の地図

 丹後由良の場合、浜堤が由良ヶ岳の山裾の外側(海側)に膨らんでいる。山裾という移動し易い所と、大川と海の岸という移動する目安となる所が二筋あるということになる。但し、岸伝いの方が膨らんでいる分、距離が長い。岸伝いの過半を占める浜堤の上に由良の市街地がある。

 山の起伏する稜線から少し下がった所を水平に巻く道を「ユリ道」という。鞍馬の二ノ瀬ユリが有名である。延びたゴムのように張り詰めないで緩みが生じているような地形や道のあり方を言った「許る(ゆる)」の連用形で名詞化された「許り道(ゆりみち)」であり、丹後由良の浜堤の細長い微高地(あ)が山裾から海側に間延びして連なっている事を言った「許り畔(ゆりあ)」が、由良の語源と考える。

 淡路の由良は丹後の由良と違い浜堤の内側が完全に水没して港となっているが、浜堤という細長く水域を仕切る微高地がゆるゆるに延びているということで丹後の由良と同様に説明できる。

 由良里に比定される鳥取市足山は西方の畑地の残る湖山町南三丁目が湖山池にある畔(あ)のような気がする。東側は水田が広がり、その北東は低平な産業団地の千代水地区で、その向こうは千代川と日本海である。昔は日本海から見て千代水の沼沢地があり、その奥に足山の細い砂地があり、その奥に湖山池があるということで、足山・湖南町南三丁目が奥にある畔ということの「入り畔」と言ったのが訛ったのが由良ではないかと考える。

 尤も、「許り畔」「入り畔」の二例で「あ(畔)」の自然地形としての指した対象を考えるのは飛躍がある。トバやシカマ、イナ、ナラ、サガといった、語尾の母音がa となる他の地名からも検討する必要があるだろう。播磨の飾磨(しかま)は川が集まり、自然堤防も皺のように寄り集まった「顰む・あ」或は「顰み・あ」ではなかったかと言う気がする。大和の奈良(なら)は、秋篠川・菰川と山松川・鹿川流域を区切る歌姫町から不退寺の緩(なる)い分水界を指した「緩(なる)・あ」ではなかっただろうかという気がする。

 紀伊由良や興居島の由良は浜堤の方が山裾より直線的なので「許り畔」では説明できない。紀伊の由良は深い湾の奥にある。湾が深く入っている所と言う「入り浦(いりうら)」の転と考える。山口市佐山の由良も、干拓前は土路石川を入り込んだ奥の「入り浦」であったか。

 周防大島の油良は1km前後の岬角で挟まれた輪状の湾を持つ浜辺であり、岬角に入り込む「入り浦(いりうら)」或いは「入り曲(いりわ)」の転でなかったかと思う。

 興居島の由良は浜堤と潟湖があるので畔(あ)の地名かと当初は考えたが、前半を説明できない。潟湖(江)の横にある停泊に適した湾(浦)ということの「江浦(えうら)」の転ではないかと思う。

 但馬の、養父の由良と香住の油良、丹波氷上の南北の油良は山が引っ込んだ窪地にある。「入る節等(いるふら)」の転と考える。

 四国の豊後水道に面した由良岬(ゆらのはな)の由良は「彫る(ゑる)」に由来するとも言われる洞穴を指すイラ/エラで、海老洞などの海食洞がある「イラ/エラの岬(ハナ)」ということだろう。

 讃岐川島の由良は、ため池などの「圦(ゆり)」に関わるものでは無いかと考える。由良池のことではないかと思う。「圦等(ゆりら)」の転か。由良山が「りう(洞)・を(峰)」であったから龍王が祀られ雨乞いの場所とされた、洞窟のあったヱラかとも考えてみたが、洞窟があったと言う話は知らない。水の供給に重要な所だったから龍王なのかとも思う。

 隠岐の由良は隣が西ノ島町の中心地の浦郷で、浦郷の湾と由良の湾を合わせて浦郷漁港なので「裏浦(うらうら)」の転か。「入り浦」と考えるにはすぐ近くの浦郷の向こうの美田港の方が入り込んでいる。だが、大きく口を開くア列音のラはユに訛りにくそうな気がする。海沿いに畑地があって奥に水田があるのは畔(あ)の地名のような気もする。更に考えたい。

 上州太田の由良、すくも塚付近が発祥といわれる東伯の由良は地形が緩やかな山であることを言った「緩峰(ゆるを)」か、その辺りということの「緩峰等(ゆるをら)」の転か。「緩」も「許る」も同根なのだと思う。

 丹後由良からの移住が伝わる出羽庄内の由良には水田と市街地に囲まれた小山がある。四方とも平坦地にそれほど幅は無く、一方の市街地の外側は海で、三方の水田の更に外側は山地である。この小山が、入り込んで嵌っているということの「入り峰(いりを)」か、その辺りと言うことの「入る峰等(いるをら)」の転かと考えてみる。移住の話は丹後由良の船人が同じ音の地名であることで贔屓にしたということではなかったか。

附 天橋立・阿蘇海

 天橋立(あまのはしだて)の語頭の「あ」も畦/畔と考える。天橋立の後背の阿蘇海(あそのうみ/あそかい)の語頭の「あ」も畦/畔と考える。天橋立の緩く弓なりになった砂州の海岸が「あ(畦/畔)・わ(曲)」であり、「あわ」を形作る細長い砂州が「あわ・の(助詞)・ほそどて(細土手)」と言ったのが転じたのが「あまのはしだて」、その砂州の所の海域であり入江ということの「あ(畦/畔)・す(洲)・の(助詞)・うみ(海)」、「あ(畦/畔)・す(洲)・か(処)・ゑ(江)」の転が「あおそのうみ」、「あそかい」と考える。

参考文献
1)地図資料編纂会,正式二万分一地形図集成 関西,柏書房,2001.
2)京都府教育会加佐郡部会,加佐郡誌,臨川書店,1985.
3)郷土誌岡田中編さん委員会,ふるさと岡田中,岡田中公民館,1988.
4)伏木卓也,二つの丹後富士,pp4-5,1,両丹地方史,両丹地方史研究者協議会,1964.
5)永濱宇平,丹後風土記,丹後史料叢書 第二輯,永濱宇平・橋本信治郎・小室萬吉,丹後史料叢書刊行会,1927.
6)のんびりぶらぶらマップ作成グループ,丹後広域観光キャンペーン協議会,ネイチャーマップ-由良ヶ岳<<のんびりぶらぶらホームページ(2008年3月27日閲覧).
7)楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
8)辻野光昭,丹後・丹波の歌枕,京都の地名検証,京都地名研究会,勉誠出版,2005.
9)橋本進吉,国語音韻の変遷,古代国語の音韻について 他二篇(岩波文庫 青151-1),橋本進吉,岩波書店,2007.
10)中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.



トップページへ

 資料室へ 
(2008年3月27日上梓 2011年12月18日鎌倉コース分割 2017年11月9日改訂)