弥仙山
於与岐町下村から

弥仙山(664m)・笹尾山(ca.570m)

 丹波の槍。弥仙山の東にある君尾山光明寺を舞台にした昔話「天狗の詫び証文」に因んだ「改心の道」という名の登山道が三本ある。綾部市於与岐町大又からの二本と綾部市上林の日置谷(へきだに)からの一本である。君尾山までは近畿自然歩道「弥仙山を訪ねるみち」から「君尾山の大栃を訪ねるみち」で、日置谷を経て一度上林川に下りてからつながっている。往時は北方の布敷、東の岸谷からと現在もある西の大又と南の上林谷と、四方から登山道があったという。

 丹波志何鹿郡之部は上杉町から蓮ヶ峯を経て弥仙山山頂まで縦走する国峰修験の縦走路があったと伝える。


★於与岐町大又から周回
参考時間:登山口-1:00-山頂-0:35-日置谷分岐-0:40-登山口

弥仙山回遊コースの地図

 大又から右の谷(上行)に入る。左は丹後峠を経て舞鶴池内。谷の法面上方に大きな民家が圧し掛かるように張り付く下の道路を進むと田畑が切れて周囲が森になり、次の二股が登山口で右手に大きく駐車スペース、左手に登山案内の看板がある。道の股には標柱と丸いお地蔵様がある。弥仙山は青葉山より高くなりたいので登山者に石を山頂に積んで欲しいと願っているとのことで、小石が横に用意されている。

 左の宮の谷に林道を進む。周回すると右の大谷小谷からの林道を下りて来ることになる。すぐに左手に水分神社の社殿が見える。幽玄な静けさを持つ神社である。社殿裏右手には弥仙山遥拝所の標石がある。明治初年までという女人禁制だった時代はここまでだったのだろうか。遥拝所から再び林道に戻って、今度は林道の右手に大きな鳥居がある。駐車スペースのように少し広くなっている。暗い谷間であるが田圃の跡が見られる。女人禁制だった時代は男子だけが耕していたのか・・・禁制が解かれてからの水田なのか・・・?林道は更に谷の中に続いているが鳥居の先に新旧の道標やお地蔵様があり、右手の山道に入る。


回遊コースの
要(駐車場)より
水分神社方面

鳥居の上
歩道入口
道標の地蔵がある

ウネウネと
最初は
平らな道

水分
神社

弥仙山
遥拝所

林道沿い
森の中に鳥居

山肌に沿って
登る

不動の滝
分岐

 山の斜面を緩々と登り続ける。古い道で一定の勾配と杉並木、歩きやすい。左手には谷筋が見下ろせる。まもなくその谷筋に降りる枝道がある。大本教開祖が修行した修練の滝の入口で注連縄が掛けられていた。注連縄をくぐって下りると暗く苔むした谷の奥に更に暗い3mほどの小さな滝が掛かっている。丹波志何鹿郡之部はこの滝の名を「不動の滝」と伝える。滝の脇には不動明王が祀られていた。暗い滝だが水量は少ない。暗くて、うまく写真が撮れなかった。深く落ち窪んだような所にある滝だから、本来は不動の滝ではなく「ふ(節)・ど(処)」の滝だったのだと思う。

 登山道に戻り、更に登る。右手の小さな段に於成寺跡の看板と石仏があった。その先で道は右折し、直線的な石の階段となる。参道らしいが鳥居や手水屋などが何も無く、ただ苔むした石段だけがあると言うのは何か心もとない。登山道だと思っていればそれまでではある。石段の途中右手に水が汲めるようにパイプが出ていて、冷水が流れ出ていた。コップもあった(弥仙水)。


於成寺跡

石段が始まる

弥仙水

於成神社

 石段は途中で何度か折れて於成神社社殿に達する。深い山中に無人の社殿と鳥居だけがポッカリとある。社殿の前には大イチョウが植わっている。社殿の裏手から更に階段を登る。トチの大木や大岩があるが、すぐにそれらより上に登ってしまう急登である。しかし丁寧にジグが切られていて足が前に進まないということはない。歩きやすい。

 稜線が近づくと空が明るくなるのを感じるが周囲は針葉樹の植林である。稜線に出ると雑木林となり道はずいぶん明るくなる。落ち葉のカサコソと言う音が心地よい。山頂の東側から南側に回りこんで山頂分岐がある。分岐を右に入りトラバース気味に進むと道が二手に分かれ、右に入ると山頂の金峰山神社社殿の裏手に出る。左手に入ると回りこんで社殿に前から入る。


トチノキの大木

トチノキの
すぐ上に大岩

稜線
間近

山の裏側を巻く

 金峰山神社の石垣に持って上がった石を押し込んで参拝。展望は社殿前方の於与岐の谷の方向だけに開けている。ライバルの青葉山は丁度社殿の後ろ側になるが樹木が茂っていて、殆ど見えなかった。お尻を向けていると言うわけですな。


金峰山神社の
裏手に着く

於与岐町方面の
展望

金峰山神社

 分岐に戻り、稜線を南下する。分岐より南へは、まずは急な下り坂。急坂を下り終わると左手はまだ背の低い植林で、間伐の隙間から青葉山などが見えそうだが防獣ネットが張られていて入りにくい雰囲気。地形図には岸谷からの道が来ている様に書かれているが分からなかった。次のコブの手前の岸谷から電波施設への車道からの道は見えた。進むに連れて左手の樹高も上がり、森の中の道といった風情になる。西側の大谷から登ってくる道も地形図に書かれているが分からなかった。あまり変化の無い緩やかなアップダウンを繰り返して日置谷(へきだに)コース分岐に達する。郷土誌東八田にある「奥坊峠」とは此処でなかったかと言う気がする。郷土誌東八田の記述では奥坊峠の細かい位置が分からないが、大又と中上林を結ぶと言う文脈から当頁では此処を奥坊峠としておく。奥坊峠は、明治維新の前は中上林から舞鶴へ塩買いに出たので塩買道といって、塩を運ぶ人が絶えなかったと言う。弥仙山から奥坊峠の間は太く掘り込まれた一定の勾配の溝になっていたり、ユリ道となっていたり、それなり生活道としての歴史のある道ではないかと思われる部分もあるが、新しい搗かれていない「ハイキングコース」としての道作りのような部分もある。ユリ道とはコブなどを巻く水平道のことである。

 奥坊峠(日置谷分岐)は山道の交差点である。弥仙山から縦走してきて直進が昔の上林西屋への道で今の日置谷コース。左の谷へは僅かに北寄りからユリ道でオダワ峠を経て日置谷だがもう痕跡も分かりにくい。右の谷に下りるのが小谷から大又へ下りる周回コース。下り始めがやや急傾斜である。少し下りると中川原の金又川から北側の大又小谷へ谷筋を変えて、杉の植林の中をジグザグに下りて小谷を渡って林道に出る。林道に出るあたりは少し荒れていて、林道から登山道に入ってくるのは分かりにくそうだ。

 林道はきれいである。道脇にはエゴマが茂っていた。大谷には古い路盤が残っているがかなり荒れているようだ。左手に上水施設を見て宮の谷出合に戻る。私は何を改心すべきだろう、そこから始めなければ・・・。


尾根上を
進む

分岐から急坂を
下りる

雑木林

尾根を乗り越す
付近

★上林日置谷から笹尾山(元権現展望所)を経て
参考時間:日置谷バス停-0:45-オダワ峠-0:20-笹尾山(元権現跡)-0:15-大又分岐-0:40-山頂

弥仙山日置谷コースの地図

 綾部駅から、あやバスで上林小学校前か日置谷バス停が最寄である。マイカーなら中上林公民館(綾部市観光センター)の駐車場。そこから日置谷川の沢沿いの林道を辿る。集落から出るとすぐに砂防ダムがあり、林道脇に桜に囲まれて山の神が祀られていて、そこまで林道はきれいである。そこより先の林道はあまり手入れされていない雰囲気であった。しかし歩く分には申し分ない。


あやバスバス停

日置谷の蔵

砂防ダム

奥に荒地

日置谷川沿いに

村はずれの祠
山の神

林道跡

歩道の
入口

 竹やぶの小山を右に見て左に田圃の跡のある小さな支谷を分けてすぐに尾根取り付きの登山口である。ここから歩道。

 道沿いにリンドウが多い。樹冠が開けていて、道に芝が生えていたりして里山の雰囲気である。日置谷の次の支谷の源頭に当たる地点で尾根上に出る。

 尾根の上の西寄りを進む。緩やかな勾配で歩きやすい。時折西側の神谷(こうたに)、薬師川流域の山肌が見える。道より下は杉の植林、上は雑木林が多い。標高330mを越えると右手の斜面が立ってくる。周りは天然林。一度小さなジグを切ってトラバースで登り続けてオダワ峠。峠の向こう側はヒノキの植林で暗い。ここの道標は尾根上の東西両方に道が続いているように書いているが、道は西の弥仙山方面のみである。計画では稜線上に東にも伸びることになっているのだろうか。


道の様子

明るい森

雑木林に

杉林

薬師川の斜面

オダワ峠間近の屈曲

オダワ峠

後方に少し展望

 しばし平坦な尾根を西に進み、右手に昔の地形図にあったユリ道を分けるとすぐに笹尾山(元権現跡展望所)の登りに掛かる。後方に490m峰や上林の谷を越して和知との境の山々の展望がたまに見えるが前方にはあまり見えない。

 557.3mの三角点に達してもやはり展望はない。更に進み、標高570m強の笹尾山(元権現跡展望所)に着いても、空は開けるが麓までは見えない。


大木が
あった

上林谷を
見下ろす

上林谷
山向こうは和知

リンドウ

シラヤマギク

 笹尾山から下り、西隣のコブは南側が桧の植林だが間伐から間もないと思われ、少し南側の展望が得られる。古い地形図ではこのコブに上林西屋からの道が上がっていた。道の幅が広くなり古くからの歩きやすい道となる。次のコブは北から、その次のコブは南からかわして大又小谷からの道と合流する。奥坊峠である。古い地形図によるとオダワ峠からのユリ道はこの奥坊峠東側の谷を標高470m辺りまで下がってから笹尾山の北面をトラバースしていた。


倒木があった

分岐近く

古城山

★山名考

 「三仙ヶ岳」とも書かれた。

 「みせん」の山名は仏教用語の須弥山(シュミセン)に例えてといわれる。だが、須弥山の「須」の部分はどうして落ちたのだろうか。須弥山とは関係ないというのも考えられるのではないだろうか。

 山陰地方には語尾に「山」と書いて「セン」と読ませる名の山が幾つもある。伯耆大山は代表的である。この「セン」は「山」の字音で呉音だと言われるが、「大」も字音の伯耆大山は兎も角、例えば伯耆大山の南に位置する烏ヶ山(からすがせん)は、「烏」が字訓で、「ヶ」も日本語の助詞の音の宛て字なのだから、「山(セン)」が字音とは考えにくい。「烏ヶ」が「からすが」と言う言葉への宛て字だったとしても、「からすが」が漢語ということはないだろう。他にも広戸仙、山形仙など訓読みの言葉に山/仙(せん)が接尾している山名は山陰地方にある。

 伯耆大山の一峰にも弥山(みせん)があるが、弥山まで登って先を見れば明らかに最高峰の剣ヶ峰の方が高い。世界の中心とされる須弥山と例えるなら剣ヶ峰の方だろう。

 「せん」という山を指す日本語があり、「御」などで書き表される接頭語の「み」が付いた「み(御)・せん(山)」が弥仙山などの、「みせん」の音を持つ山名の語源と考える。甲武信山地で山の頭を「沢または谷のセリ」という。また、奈良県吉野郡では谷の最奥で登りあがっている所を「せり」と呼ぶ。他の地方でも山頂と思しき処を「せり」と書いている古文書を見る。「せり上がる」などの「せり」だろう。「せり」の転訛が「せん」ではないか。ライバルの青葉山の別名の「みせん」共々、「お山」のようなニュアンスの「み(御)・せり(山)」だったのではないか。伯耆大山の登りやすく山頂の広い弥山は、多くの人が登れる「み(御)・せり(山)」ということだったのではなかったか。弥仙山も於与岐などの地域の代表的な「お山」的な「み(御)・せり(山)」ではなかったか。

参考文献
金久昌業,北山の峠(下),ナカニシヤ出版,1980.
京都府中丹広域振興局,綾部市,綾部市観光協会,於与岐区,NPO法人於与岐みせん,弥仙山マップ(表)(裏)<<ようこそ!弥仙山の里へ
Myあやべ>>オダワ峠と弥仙山「改心の道」
上林風土記編纂会,上林風土記 写真集,上林風土記編纂会,2004.
内田嘉弘,京都丹波の山(下),ナカニシヤ出版,1997.
ゼンリン住宅地図 綾部市,ゼンリン,2009.
地図資料編纂会,正式二万分一地形図集成 関西,柏書房,2001.
堀正綱,古川正路,丹波志 何鹿郡之部,綾部史談会,1986.
北村龍象,丹波誌 巻8 何鹿郡 上,京都府立総合資料館,1992(1924).
東八田郷土誌編纂委員会,郷土誌東八田,東八田公民館,1988.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.



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(2010年12月31日上梓 2018年6月15日山名考追加)