御嶽山 継母岳(2867m)

 木曾御嶽山は剣ヶ峰、摩利支天山、継子岳、継母岳からなるが、継母岳だけ登らないという訳にはいかないと思って登ってきた。

 高頭式は日本山嶽志で継母岳に飛騨側の小坂落合から登山道があるとも書いているが、昔の継母岳はどうも今の剣ヶ峰の西の位置とは限らず剣ヶ峰の東側の現在の継子岳の近傍でもあったようである。日本山嶽志は継子岳の別称が継母岳とも書いている。今の継母岳に直接落合から登る道があったのではなく、今の飛騨頂上・継子岳への道が日本山嶽志の継母岳への登山道という事だったのかもしれない。御岳講の家族のいた木暮理太郎は明治26(1893)年の回想で現在の継子岳付近を継子岳と書くとともに頂上小屋から継子岳に至るまでの間で三の池と四の池の境の高まりの辺りを継母岳と書いている。

 嘉永元(1848)年の御嶽山全図では継母岳は黒沢と王滝の間の上空からの視点で御嶽山最高点の右側に四の池と五の池を抱えて聳えている。松平秀雲の宝暦7(1757)年の吉蘇志略では継子岳が御嶽山の西南西に広がる三浦山に絡められて登場している。水谷豊文の文化7(1810)年の木曽採薬記では南方から御嶽の鳥瞰図で頂上御嶽大権現の左方下手に「マヽコガ嶽」が描かれる。天保9(1838)年の木曽巡行記の木曽見取図では現在の継母岳と思しき位置に「マヽコカタケ」と山の名が振られる。一方、江戸時代末期の飛騨山川所収の松村梅宰による飛騨全図では飛騨側から見て最高峰の御嶽は北に継子嶽、南に継母嶽を侍らせて聳えている。

 明治前期の皇国地誌残稿王瀧村分では御嶽山から山脈三方に分かれ「戌の方に赴ものは継母ヶ嶽(三岳村にては継子ヶ岳と云)」とあり、三岳村分と開田村分では御嶽山の北の峰を継母ヶ嶽としている。吉田東伍は大日本地名辞書の中で、小島烏水は日本山嶽志の中で継母岳を現在の地形図と同じ位置と思しき書き方をしている。飛騨山川に一部引用される市村成彦の明治21(1888)年8月の小坂から濁河温泉を経ての御嶽登山記には案内人が現在の摩利支天山を指して継母岳と云ったとある。継母岳や継子岳は、或は摩利支天山も昔は地域や宗派によって様々な位置があったのかもしれない。今の継母岳には「ほくせいざん(北西山/北清山)」という別称もあったようである。

 継母・継子の名は御岳山座王権現縁起では、継子にされて死んだ子と、その浅ましさを悔いて死んだ継母に因むとされるようである。この伝承は室町時代中期の熊野信仰の影響が考えられると言う。この縁起の主人公は継子にされた阿古多丸(阿古太丸)である。縁起では阿古多丸の父を含めた親子の人々を山の主として座王権現に祀ふべしとしているが、父を剣ヶ峰、継母を継母岳、阿古多丸を継子岳とすると、弟(阿古多丸)を追って自害した姉の利生御前に相当する山はどこになるのだろうか。姉と弟で継子岳と継子U峰なのか。今の継母岳を継子岳と考えた場合はどうなるのだろうか。

継母岳の地図 今の継母岳が本来の継子ヶ岳で、継母岳山頂(T峰)から南西に約880mの継母V峰(2647m)の南面の抉れた崖に注目して「まま(急斜面)・くえ(潰)」或いは「まま(急斜面)・くえ(崩)・を(峰)」の約まったのがママコであって、同じ継母V峰の抉り込まれた尾根(背)、或いはT峰とU峰の間の痩せ尾根の山と言うことの「ほき(崖)・せ(背)・を(峰)」の転がホクセイではないかと考える。或いはU峰とV峰の間だけでなく、T峰とU峰の間の南面の崖も合わせて「まま」か。

 今の継子岳は本来の継母岳で、すぐ下の止水面の無い四ノ池のコロシアムのように囲われた丸い平坦地をいう「まろ(丸)・はら(原)」の岳と言うことの転がママハハでは無かったかと考える。

 上で推定した「ままくえ」も丸く連なっている。或いは王滝の人たちは「まろ(丸)・はば(崖)」と言っていたのが「ままはは」にも転訛したか。四ノ池も王滝側では「まろ(丸)・かひ(峡)」と言ったのが「ままこ」に転訛したかとも考えてみる。

 剣ヶ峰を後にして一ノ池をぐるりと西に回り、継母岳にもっとも近づいた所で斜面を下りた。継母岳に最も近づいた一ノ池のお鉢の西のピークは地形図上でも3040mを超え、剣ヶ峰と殆ど標高が変わらない。

 王滝の濁川からの登山道跡は上の方では不明瞭ながら痕跡が分かるものの、下りていくに従って確認できなくなる。後は岩礫斜面を継母岳に向ってまっすぐ降りていくのみだ。最低鞍部が近づくと再び道のあった痕跡が分かるようになる。地形図に描かれている一本だけの古い道ではなかったようだ。殆どは既にカーペット植物に覆われている。最低鞍部は巨岩の点在するカーペット植物と苔のお花畑で天然公園的別天地だ。風化した木作りの小さな鳥居がぽつんと建っていたが、鳥居の下もすっかり花畑だった。非常に気持ちの良いところで昼寝や幕営したい気分になる。しかしガスが出ると迷いそうだ。

 継母岳への登りは急なガレ場を行く。落石に注意を要する。ガレていて昔あった道も既に崩れてしまっているようだ。ガレ場を登りきって山頂に飛び出すと西側の荒涼とした景色が目に入る。継母岳山頂には屋根のなくなったお社があった。御嶽山の要所要所にある梵鐘もここにはない。下山はガレ場を避けて南寄りから鳥居に向かって下った。


継母岳
お鉢の西のピークから

継母岳
摩利支天山から

継母岳
王滝頂上奥の院から

参考文献
高頭式,日本山岳志,博文館,1906.
木暮理太郎,木曽御嶽の話,山の憶い出 下(平凡社ライブラリー297),平凡社,1999.
生駒勘七,御嶽の信仰と登山の歴史,第一法規,1988.
松平秀雲,吉蘇志略,信濃史料叢書 第4,信濃史料編纂会,信濃史料編纂会,1914.
水谷豊文,木曽採藥記 2巻,国立国会図書館蔵写本(特7-89)デジタル資料.
岡田善九郎,脇田雅彦,木曽巡行記(一宮史談会叢書14),一宮史談会,1973.(木曽見取図)
岡村利平,飛騨山川(飛騨叢書2),住伊,1911.(御嶽山全図)
長野県,長野県町村誌 第3巻 中南信篇,郷土出版社,1985.
吉田東伍,大日本地名辞書 第5巻 北国・東国,冨山房,1980.
神津俶祐,木曽御岳火山地質調査報告,pp1-63,59,震災予防調査報告,震災予防調査会,1908.
新井清,御岳とその周辺(マウンテンガイドブックシリーズ34),朋文堂,1963.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
中田祝夫・和田利政・北原保雄,古語大辞典,小学館,1983.



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(2002年7月14日上梓 2012年9月17日リニューアル 2018年10月17日改訂 2023年1月22日URL変更)