三国山

 信濃、飛騨、美濃の三国に跨る山だが、山の名がどうもはっきりしない。角川日本地名大辞典の岐阜県の巻には「みくにやま」とあるが、資料の引用などはない。日本山名総覧は「ミクニヤマ(サンゴクサン)」としている。明治38(1905)年選点の山頂にある三等三角点の点の記には「さんごくさん」と振り仮名がある。三角点の名は所在地の地名に束縛されるものではなく、点の記の振り仮名は後から補われることもあるというが、後からだとしても選点者に問い合わせて明治38年の選点時か、以降の地元の呼称を伝えているとも考えられそうである。

 樋口好古の濃陽徇行記、活字化された濃州徇行記に収められた宝暦6(1756)年の松平君山(秀雲)の記録の、資料からの転載を思わせる杭場里数では「水ナシ峠三国三ツ合」とある。振り仮名はないが、この場合の「三国」は「さんごく」だろう。文化7(1810)年の水谷豊文の木曽採薬記には「三国峠遠見場」とあるが振り仮名はない。三国峠の最高点の遠見場から「八丁下ル」と「鞍カケト云所」とあるのが鞍掛峠で、鞍掛峠から三国山の距離は約810mである。天保7(1836)年の大窪舒三郎(昌章)の濃州信州採薬記でも「三國峠」とあるが振り仮名がない。

 裏木曽の小郷から登って三国山から信飛国境稜線伝いの御嶽山への道と九つの土塚が、享保14(1729)年に飛騨側から信濃側に入っての伐木「切越」を抑止する為の国境線の明確化の為に稜線の「伐明ケ」(掘り下げ・刈り分けなど)と共に尾張藩によって設けられていて、一番目の土塚は倉掛峠(鞍掛峠)にあった。松平君山の杭場里数は御山守の記録からの転載でないかと思う。

 鞍掛峠から三国山への道は2018年に刈り分けられていたという記事を見たが(点の記によると三等三角点「三国山」は2008年改測)、その後の笹薮が深いとのネットの記事を見て、沢登りならヤブ漕ぎの距離が短くて済むだろうかと考えて2021年に鞍掛峠から少し下って沢から登ってみたが、源頭でまずまずのヤブ漕ぎを強いられた。懲りて下りは尾根伝いの古い道を辿ったが、こちらもまずまずの藪漕ぎを強いられた。多分、鞍掛峠から登るなら、2021年の時点では登りでも沢より尾根伝いの古い道の方が多少早くて楽なのでないかと思うが、これから笹薮が年々増していけばいずれ逆転するか。

三国山地図1三国山地図2三国山地図3

★登り・水無シン谷

 谷(沢)の名は天保7(1836)年の大窪舒三郎(昌章)の濃州信州採薬記にある三浦山谷々ノ図による。

・アプローチ

 樹冠が少なく日当たりのきつい御岳御厩野林道を夏の日中に登るのを避けたくて、白草山御厩野コースで白草避難小屋の稜線に上がり、白草避難小屋から鞍掛峠までの登山道の笹薮漕ぎも近年かなりきついとのネットの記事を見ていたので、道に笹が被り始めた辺りから北側の水無クロブチの支流(水量と流域面積的には支流だがクロブチが直線的な分水嶺の脇に平行する「くろ(畔)・ふち(縁)」ということなら本流なのかもしれない)へ下りて沢を下降し、途中まで来ている鞍掛林道に上がって鞍掛峠に出た。ところが水無クロブチの支流に下りつくまでの笹薮漕ぎは北海道のチシマザサ(根曲がり竹)のヤブ漕ぎも同然の桿の束の上だけを泳いで地面に全く足の付かない相当なきつさで、後で笹薮がひどいとは言っても膝下に桿のない空間が残っていた三国山から鞍掛峠の稜線道を歩いて、避難小屋から鞍掛峠も黒淵横手の登山道をそのまま進んだ方が早かったかもしれないと思った。避難小屋のすぐ東側も濃い笹薮なので、避難小屋から直に水無クロブチの谷に下りたとしても、ある程度水流に幅が出るまでは猛烈な笹薮漕ぎになったと思う。

 沢足袋に履き替えて下る水無クロブチの支流は平らな沢で、水無クロブチ本流は広い河原でいずれも歩きやすい沢だ。鞍掛林道は大部分使われておらず、白草山から見ると箱岩山から笹の刈り分けが下りているのが見える地形図にない左岸の緩い尾根に取りつく所は深い藪で、橋は流されて橋の下にあった土管は流されて少し下の河原に転がっていた。地形図にある右岸沿いも高茎植物が茂っていたり、山崩れで抉れていたり土砂が積みあがっていたりするが、歩く分には問題ない。尾根の東側に回り込むところは近年の崩れをすぐ下に走る御岳御厩野林道の為に修復してあり、立木がないので三国山が良く見える。鞍掛林道は元は鞍掛峠の鞍部で三叉路になっていた跡があるが、今は鞍部のすぐ手前(北側)で折れて、鞍部のすぐ北で御岳御厩野林道に合流する。合流点から御嶽山が見えるが一帯の木の背が伸びているようで、事前に見ていたネットの鞍掛峠からの御嶽山ほどすっきりとは見えなかった。


避難小屋を後に鞍掛峠方面へ
はじめは笹無し

やっとこさで
水無クロブチ支流へ出た

水無クロブチ
平らな沢 ここはナメ

水無クロブチ
1.5m2段の唯一の滝場

水無クロブチ
谷が広がってきた

林道終点の河岸から
流れた土管を見る

鞍掛林道
法面崩れ

鞍掛林道
三国山が見えた

付替路盤跡 峠側から
左の藪に倉掛峠土塚がある

・鞍掛峠

 合流点のすぐ上(南側)に林道ゲートがありそのすぐ上が鞍掛峠の鞍部である。南方に御厩野の展望がある。鞍部の西側に白草山方面への登山道があり、登山道に入ってすぐの所で笹薮に覆われているが右に分岐があり、右に入って笹薮を少し漕いで上がると東屋がある。東屋は屋根・床ともしっかりしているが周りの木々は屋根の高さを遥かに超えて薄暗く展望はない。手すりはトロッコのレールである。白草山登山道入口の北側に、以前の鞍部で分岐していた鞍掛林道の路盤を塞ぐ土盛りの手前から東屋北側の小沢に入る踏み跡があり、小沢の手前に林道路盤跡に積まれた土盛りに半ば埋もれて50pほどの高さの倉掛峠土塚がある。直径は1.5mほど。土塚の頂に平石が積まれており、土塚の裾を固めていた石の土盛りに埋もれた部分が剥がされたもののようである。奥側にあたる小沢側には裾を固める石がそのまま残っている。小沢の右岸に荒れているが古い路盤がある。昔は倉掛峠土塚の脇から小沢に沿って尾根に上がって白草山方面に向かう道であったのだと思う。


鞍掛峠 三浦貯水池方面

御嶽山は梢の上

鞍掛峠拡大図
鞍掛峠拡大図

御厩野方面の展望

東屋

東屋の中
しっかりしている

東屋の手すりは
トロッコのレール

倉掛峠土塚 塚自体が小さい上に
笹が多くて写真にならない

倉掛峠土塚 頂に積石

倉掛峠土塚 裾に石

土塚の奥の谷に水

・水無シン谷

 鞍掛峠から東屋の北側の沢の林道の反対側を下りて行こうと考えていたが見ると藪が深いので、一旦林道を三浦貯水池方面に標高で60mほど下って、水無沢の本流の源頭であるシン谷に入る。密生する笹藪に囲まれた林道の橋から下りてシン谷を遡行する。何もない沢だが今月の長雨の影響か浮石が多い。通る人は居るようで足場になる倒木や岩の苔が剥げている。標高1500m辺りでは国境稜線がすぐ右手に見えているが、30mほどの高さの斜面の全てが厚い笹藪である。標高1530m辺りから水流の両側の笹薮が重なり始める。標高1550m辺りでまだ足下に水は流れていたが斜面のヤブ漕ぎと変わらない密度のヤブになったので三国山への斜面をまっすぐ登ることにする。北向き斜面で多少笹薮の進出が遅れているのか沢を離れて大木の蔭をつないでいくと多少藪の薄いところもあるが、山頂が近くなって傾斜が緩むとまた猛烈な笹薮となり、山頂の20mほど北西の登山道に出た。山頂近くの登山道の周りは樹林が深く、登山道の路盤の上の藪は殆どない。


シン谷

足場苔剥げ

・山頂(三国峠/三国山)

 山頂は南東側の展望が開けているが北側は樹林で望めない。昔は知らないが今は南東方のみの小郷方面の遠見場である。小秀山はよく見える。水無シン谷を詰めたら出る北東側の稜線も深い藪で、水流を完全に詰めた方が斜面を山頂目指して直に登るより楽ということはなさそうだ。小郷から登った宝暦6(1756)年の松平君山と文化7(1810)年の水谷豊文は三国山から一旦鞍掛峠に下りて水無沢へ下ったが、天保7(1836)年の大窪舒三郎は水無小屋へ、三浦山谷々ノ図によると三国山の山頂から少し今は深い藪になっている稜線を進んでシン谷右岸の尾根を下ったようである。

 享保9(1724)年の信府統記では三国峠は髭摺峠(ひげすりとうげ)とされ、木曽郡の南西の隅で滝越から小郷への峠道で、美濃でも同名で呼んでいるとされる。信府統記のこの箇所は書かれ方を見るに国絵図か正保国絵図付帯の道帳からの写しのようである。村誌王滝に明治9(1876)年の長野県権令楢崎寛直殿江上申図控の図版があり、御厩野に下りる倉掛峠と別に小郷に下りる三国峠が「一名髭摺峠」とある。

 シン谷の名が最奥であることの「すみ(隅)・たに(谷)」の転と考えると、「すみ(隅)・せり(迫)」でシン谷の迫上がった三国峠/三国山を呼んでいたのが訛ったのが「ひげすり」か。三国山が「さんごくさん」だとしたら、「さんごく」は「すみ(隅)・が(助詞)・こえ(越)」の転で、「さん」が「せり(迫)」か。


山頂

小郷方面

小秀山

★下り・国境稜線

・八町坂(国境稜線道)

 三国山山頂から鞍掛峠までの国境稜線の道を凡そ四等分して見る。三国山から鞍掛峠は松平君山の記録の杭場里数に「八町坂」とある。

 上の端の1/4は多少笹薮が道に被っているという程度で歩きやすい。立っていて足元が笹薮で見えないことはあるが歩くのに抵抗はない。時折岩場や草付きで笹の全くない箇所もあり。白草山を望めるところもある。平坦な山頂から下り始める辺りで森の中から出て笹薮だけの中の道となる。その辺りで南側から小郷からの古い道が合流していたはずだが気が付かなかった。道は地形図にある県境線より南西側の御厩野川の斜面の際を下りていく。

 次の1/4は濃密な背丈を超える猛烈な笹藪で足元は全く見えず、前方は笹しか見えない。近世に作られた古い地道なので掘り下げて搗き固められており、笹の根がすぐには進入しないので路盤から出ている笹は少なく膝下に笹のない空間があり、足は地面に着いて太腿と胴体で両脇から倒れこむ笹を押し分けて歩く。倒れこんだ笹が積み重なって膝下の空間も塞がれているところでは桿の束を踏んで行くが、10歩以上地面に足が着かない時は道を外れていると考えた方が良いようであった。今回はそうやって区別できたけれど、今後更に倒れた笹が積み重なるとどうなるか分からない。またいずれ三国山山頂の三角点の測量の為に笹が取り除かれることを期待するしかないのか。

 次の1/4も濃い笹薮が続くが桿を踏むほどではなかった。三国山から鞍掛峠までの笹薮の中に他に倒木がなくて脛をぶつけることはないのだが、この区間に古い倒木が一本だけあって路盤を横断している。しかしごく古い、道が笹薮に覆われておらず登山者も多くいた頃の倒木らしく路盤の上にあたる部分は切り欠いてあって普通に足を上げて歩いていれば脛にあたるということはない。

 最後の1/4は前半と後半で様相が違っており、前半は尾根の北東側の若木の針葉樹林の斜面に入って笹薮は殆どない。緩い傾斜の樹林の端をまっすぐ下りていく。後半はまた尾根線上に出て濃密な笹薮となる。北東斜面から尾根線に戻る所で振り返ると、下ってきた道とは別に尾根線に忠実な掘り下げが濃密な笹薮の下に入り込んでおり、前半は新しく作られた路盤なのかもしれない。林道が左手に見えてくると笹の中にタラノキが多く棘が怖い。掘り込みは鞍掛峠の40mほど手前の林道の法面で切れており、2mほどの高さの若木の藪の法面を下りる。下りた所から20mほど鞍掛峠側に林道を進むと目印らしき木柱が立っていて、笹は低いが野イチゴの蔓が繁茂している刈り分けの跡のようなものが三国山に登っていくように見える。野イチゴの棘の中に入る気がせず、法面の上の掘り込みが切れた辺りにつながっていたかどうかは確認せず。


はじめは白草山と
箱岩山が見える

最後の1/4前半
北東側に入る

笹薮の中のタラノキ

木柱の所

・御岳御厩野林道

 帰りも水無クロブチから白草避難小屋を経て白草山御厩野コースを下山しようと考えていたが、水無クロブチに下りつくまでとシン谷源頭のヤブ漕ぎが思いの外きつかったのと、曇ってきて日差しを気にしなくても良くなったので御岳御厩野林道で御厩野へ下山した。鞍掛峠は御厩野から見ると確かに鞍を掛けたような地形なのだが、御岳御厩野林道の下の方から見上げると林道上部でトラバースしている大きな岩峰と下に続く岩の断崖が目に付く。御厩野の字限図を見ると小字鞍掛は御厩野川(竹原川本流源頭)の最奥の左岸の斜面で、三国山の西面にあたる。或いは「くら(鞍)・かけ(掛)」のような峠ということではなく、岩場の大きく露出した急斜面ということの「くら(ー)・かけ(懸)」に隣接する峠ということだったのではないかと考えてみる。

 御岳御厩野林道の車止めの下側のゲートは標高1125m辺りにあった。


御厩野方面
V字谷

御岳御厩野林道
岩場の脇

鞍掛橋から
上の方を見上げる

参考文献
角川日本地名大辞典編纂委員会,角川日本地名大辞典 41 岐阜県,角川書店,1980.
武内正,日本山名総覧,白山書房,1999.
樋口好古,平塚正雄,濃州徇行記,一信社,1937.
水谷豊文,木曽採薬記 2巻,国立国会図書館蔵写本(特7-89)デジタル資料.
大窪舒三郎,濃州信州採薬記,随筆百花苑 第4巻,森銑三 et al.,中央公論社,1981.
太田尚宏,尾張藩「御山守」の職域形成と記録類,pp1-25,14,国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇,国文学研究資料館,2018.
松平秀雲,吉蘇志略,信濃史料叢書 第四,信濃史料編纂会,信濃史料編纂会,1914.
鈴木重武・三井弘篤,信府統記 上,新編 信濃史料叢書 第5巻,信濃史料刊行会,信濃史料刊行会,1973.
王滝村,村誌王滝 上,王滝村,1961.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.
金田一京助,増補 國語音韻論,刀江書院,1935.
下呂町史編集委員会,飛騨下呂図録,下呂町,1980.
楠原佑介・溝手理太郎,地名用語語源辞典,東京堂出版,1983.



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(2021年9月20日上梓 2023年1月22日URL変更)