龍辻越探訪(又口辻〜女川木滝の休場)

 龍辻越は北山の栃本(小橡)から尾鷲に至る二度の大きな山越えを含む古道だが、明治期の出口峠の開削などで中ほどの委細谷の中の谷道は街道としての利用から外れたようである。龍辻の東側の又口辻から尾鷲までは大台ヶ原尾鷲道 その4に記した。西側は栃本はおろか出口までもまだ達していない。

龍辻越広域図1龍辻越広域図2
おちうち越と龍辻越の地図
東ノ川以西は粗い推定
龍辻地図1龍辻地図2
龍辻・女川木滝付近の地図
委細谷左股の沢筋は衛星写真から起こす

★又口辻〜龍辻

 大台尾鷲道の又口辻から西に尾根筋を登る道型があるのが龍辻越の栃本への道である。緩く直線的な尾根上に掘り込まれてあるのだが、この尾根筋の先の龍辻山の山頂を感じるようになると、踏み跡は続いているのだけどいつの間にか路盤が見当たらない。踏み跡に従って行く天竺納戸(龍辻山)の山頂は北側がブナの樹林で展望がないものの、南側は低木のアセビがポツポツ生えているだけの、大峰山から尾鷲の海まで展望の良い所である。南の方で目立って高く見えているのは大峰山脈の笠捨山。松浦武四郎は丙戌前記で竜辻から「玉置はてなしと思ふ南に高山見ゆ。此山は重も平も何と云事を知らず。恐らくは是大塔岳ならんと思ふ。」としているのは、大塔山も見えるのだが、大塔山の山並みの右奥に尖って飛び出る法師山のことを松浦武四郎は言っていたのでないかと思う。果無山脈は笠捨山より右の大峰山脈の上に僅かに頭を出すようだが私には識別できず。


天竺納戸(龍辻山)
山頂

天竺納戸から尾鷲方面の
展望

尾鷲
アップ

長島方面の
展望

手前左は龍ノ高塚
奥の高い山は笠捨山

天竺納戸山頂の
トチの木

左は大塔山、右奥に法師山

 当初は龍辻山を、龍辻山という呼び方を聞かず「龍辻」という場所と聞いていて、龍辻山の山頂に上がってから委細谷にどこかで下りていたのだろうと考えていたのだが、龍辻山のなるい山頂一帯から委細谷の方に下りる路盤も見当たらない。地形図から、委細谷に下りるならまず龍辻山の南の肩へ下り、肩から西へ下る細尾根で標高を下げてから急峻な委細谷の源頭に入るだろうとあたりをつけて南の肩に稜線で下りてみると、肩に下りつく10mほど手前に硬くなった路盤があった。路盤はそこから龍辻山の南東斜面に入って又口辻方面に続いていた。一旦帰宅して仁井田長群の天保5年の登大台山記と松浦武四郎の明治19年の丙戌前記を読み直すと、龍辻は山頂ではなく、肩のようなより高い所がある地点であることははっきりしないが記してあったのに気が付いた。龍辻に於いて、登大台山記では「右を天竺納戸といふ」と、丙戌前記では「上なる山は中ノ嶺と云なるべし」と。紀行を読んでいても実地に照らし合わせないと読み取れないことというものはあるものだと思った。

 龍辻山の南東斜面へ続くこの路盤を龍辻から又口辻方面へ辿ってみると、馬酔木の低木の茂みの中で次第にはっきりしなくなるが、又口辻から龍辻山までのほぼ3/4進んだ稜線のすぐそばの辺りまでは路盤が確認できた。路盤から外挿して稜線に出て、改めて稜線を見ると、稜線上の掘り込まれた路盤が消えるのも同じところであった。


肩から南東斜面に路盤

アセビの疎林

アセビの疎林

アセビの中の路盤

路盤

トラバース路盤東端付近

★龍辻〜委細谷

 龍辻山の南の肩の西側はドーム状で、西の龍ノ高塚へ続く尾根へ下りる方向に路盤が見当たらない。南方へは稜線沿いに、東斜面に入って下る路盤はあるが、委細谷から離れてしまう。路盤を見ぬまままずはドーム状の西へ尾根線にあたる所を下りてみた。

 急峻な尾根を標高で70mほど下がると、掘り込みによる段のようなものが尾根線の両側に交互にあるのに気が付く。一旦尾根が平坦になる標高1100m辺りから、振り返って交互にあった段ををつなぎながら登り返すと、段に気が付かなかった上の方にも薄くなった掘り込みが尾根線に絡んでいるのが分かる。標高1180m辺りで一旦南斜面に入ってジグを切り、尾根線と交差してドーム状の部分を南側から巻くように登り、ほぼ東向きに龍辻に上がっていた。


1100mから上の掘り込み

1100mから上の掘り込み

1100mから上の掘り込み

1100mから上の掘り込み

1160mから南斜面へ

ジグを切って1190m付近

 尾根上の標高1100m辺りに、北向きに尾根の土を刳り取ったような窪みがあり、委細谷から南向きに上がってきてこの窪みで反転して尾根に取りついたのではないかと考え、窪みから北向きに山の斜面を下りてみた。斜面は土の樹林で窪みのすぐ下は路盤があったようにも見えるのだがはっきりしない。水平距離で50mほど下ると全然わからない。先に委細谷の谷底がガラガラの岩礫で覆われているのが見える。そのまま進んで下りてみると、岩礫の粒はそれほど大きくなく歩けないわけではないが歩きにくく不安定である。街道とするなら掘って搗き固めれば安定する土の斜面の方が良いだろうと、谷底から離れて土の斜面を西に下りながらトラバースしてみるが、路盤は見当たらない。広い土の斜面でどこでも歩けるのだけれど、急斜面ではあり、目当てになるものが何もないというのが歩きにくい。西に行くほど斜度がかかり、龍ノ高塚(南西方、出口峠の向こうの1167m標高点のピーク)の尾根が窪みの所から更に下がって鞍部になっている所の北側まで西に行くと岩が多くなって更に歩きにくい。龍辻越はそこまで西に進まず土だけの広い急斜面をジグザグに下っていたのが長年誰も歩かなかったので土の路盤が流れてしまったのだと思う。


尾根から下りてすぐは
路盤があるような

どこを歩いたものか
目当てのない一枚の急斜面

80mの谷は緩いがガレ
上の方

80mの谷は緩いがガレ
下の方

40mの谷は岩盤急傾斜
上の方

40mの谷は岩盤急傾斜
下の方

 標高1050mまで下ると滝の音が聞こえる。下がるほどに斜度も増す。1040m辺りから下に、先の西側の石の多い斜面が岩盤の谷筋になって落ちて、谷筋の手前が小尾根となって歩く目安になる。路盤は見当たらないのだが、東側斜面も次第に岩礫が増えて歩きにくくなっており小尾根の上を下る。1000mでも路盤は見当たらないが針金があった。950mではっきりした路盤を見る。振り返ってこの路盤から上にどう続いているのか見えないかと思ったが、小尾根の東脇に進んでいるようなのだが、先は路盤ではなく鹿の踏み跡で東側斜面の岩礫の中に消えており、どう続いていたのか分からない。


小尾根に乗る

路盤を見つけて振り返るが

下るほどにはっきり路盤

 里程大和国著聞記に委細谷から「是ヨリ国境迄十九町上リ坂」で「角木ヲガンギニキサミ長サ一間二間宛(ずつ)ノヲ一本立テ上リ下ル所モアリ」とあるのがこの小尾根の上半分で、路盤を掘れないほどの急斜面と岩盤で角木に刻み目を入れて梯子のようにして登り降りしていて路盤が元からなかった区間だったのかもしれない。

 950mより下ははっきりした路盤が小尾根に絡んでグネグネと下りている。針金をまた見る。小尾根末端で一旦西側の岩盤の谷筋まで下りてまた尾根線に絡んで、標高900mで委細谷の本流の前に下りる。水筒に汲むのにちょうど良いほどの石の間のわずかな水量で、下側はすぐ伏流となっている。


委細谷本流に下りつく
川上側を見る

★女川木滝・女川木滝の休場

 松浦武四郎の丙戌前記に委細谷の中で女川木滝の名がある。「めかわきだき」と読む。「此処大崩れ岩、水無し。左りの方に掌を立るが如き岩壁に細き滝有て、是を女川木滝と云なり。」とある。委細谷の伏流している所で、右岸にある細い支流の滝の名のようである。委細谷の中の様子は大阪わらじの会の記録によると、現在(2021年)の地形図で見られるより複雑な沢筋のような印象である。衛星写真(GoogleMap)で見ると、一帯が急斜面で谷線が地形図に顕れないような滝場の沢筋があるようである。衛星写真では委細谷540m二股と龍辻山の中間辺りに二股があって(標高880m)、左股を30mほど入った所から、長さ100mほどの細長く大きな水の流れる黒い岩盤(高さは50m以上ありそうだが100mもは無いか)がクランク状に曲がって続いているように見える。だが黒い岩盤と考えるには真ん中の水流の細く白い筋以外が全部真っ黒で濡れているように見えるのが不審だ。岩盤ではなく深いルンゼになっていて衛星写真に十分な光を出していないものと思われる。地形図だけを見ていると880mに二股があることは考えにくいと思う。

 丙戌前記稿本では出口村から十二丁で「谷の休場」、更に十二丁で「女川木滝の休場」、十余丁で後方に楊枝・釈迦・大日等の大峰山脈中ほどの山々が見え、四五丁で行者還から大峯(山上ヶ岳)の方と玉置・雲取の大峰山脈北部と南部と熊野の山々が見え、二丁ばかりで竜峠/竜辻だという。以上の里程の配分からは女川木滝の休場は委細谷540m二股の下手かと考えたくなるが、後半の急登が老体の松浦武四郎に堪えて長くなっていると考える。

 衛星写真では、標高880mの二股から右股を100mほど登ると、右股も細く真っ黒となっており相当険悪な様子が窺われ、更に二股(標高920m)に割れている。右股の右股が龍辻山に突き上げて、右股の左股より奥行きがある。大阪わらじの会の記録の左股が「ヤブをくぐりぬけると両岸50mからのーが並んで、水量はないがルンゼ状の滝が連続してつきあげている」で、右股が「入った途端、様相が一変した。谷は再び二つに分れ、正面に30mばかりの岩壁が立ち、左股はせまく、両岸がたがいに触れんばかりにせばまり、ルンゼ状になって奥は見えない。右股はと見ると、これまたルンゼ状になって急登している。水量は右股の方が幾分多そう。」の通りである。左股も、920mより上の右股も溯行は相当難しいようである。坂本貯水池から880m二股を右股に入って920m二股までは難しく無さそうである。

 880m二股の右股に入って40mほどと80mほどの所に、大阪わらじの会の記録に出てこないが、水の無さそうな浅い谷筋が黒い影もなく龍辻山の南方から下ってきているのが衛星写真で見える。地形図では浅いが両方とも明確な谷である。

 2014年5月に80mの浅い谷筋の標高1070m辺りまでは龍辻山から下りてみたものの、大阪わらじの会の記録は読んでいたが左股と右股の溯行ルートを標高880m以上の委細谷の谷線がはっきりしない地形図に落とせず、まだ衛星写真と照らし合わせてもいなかったのでどこに難所があるのか分からず、下降に相当な困難を予想してそれより下に下らなかった。その後、衛星写真の黒い影で大阪わらじの会のルートを地形図に落とし、80mの谷筋と落合より下の委細谷に難所は無いと踏んで、衛星写真での黒い影の末端の所のどちらかがが女川木滝ではないかと考え、2021年10月に再度下降し40mと80mの間の小尾根が委細谷間近で下降しやすく、路盤があるのを見た。

 委細谷に下りついて対岸は岩の積み重なる上に垂直の岩壁があり、谷筋の上手を見るとその垂直の壁が曲がった廊下の壁のように回り込んでいるように見える。

 その回り込んでいるように見える岩壁まで上がってみると、岩壁は曲がるものの回り込むというまでではなく、そのまま見えている高さで10mほどのガリーの滝となっていた。左岸も下ってきた小尾根の右手にあった岩礫の谷筋(80mの谷筋)の落合の先で同様に岩壁となっており、掌を立てたような細い滝という丙戌前記の松浦武四郎の表現そのものの姿だった。大阪わらじの会の「左股はせまく、両岸がたがいに触れんばかりにせばまり、ルンゼ状になって奥は見えない。」が、松浦武四郎の女川木滝の掌を立てたようとの表現と同じことを指していると読んだ時点で気づくべきであった。このガリーの滝が右股の衛星写真での黒い影の末端で女川木滝と考える。滝に寄ってみると左岸から見えていた細い滝より三倍は水量のある見えている高さで6mほどの滝が転がり出るように現れた。ここが920m二股で、6mほどの滝が委細谷の本流で右股の右股、女川木滝が右股の左股であった。

 大阪わらじの会の記録を見て、880m二股の左股も滝になっているとあり、880m二股の左股の滝が女川木滝の可能性もあると考えていたので、900mの谷筋に下りた所から更に下ってみる。右岸の岩の間に転石で覆われている感じだが、何となく路盤のようなものがある。上手で回り込んでいるように見えた右股右岸の岩壁がそのまま下方に続いて低くなった所から880m二股左股の滝が岩壁にそのまま落ちていた。見えている高さは最下段の5mとその上の段8mほど、その上は別の岩壁が遥かに高くそそり立っていて谷筋が右手に曲がっているのが見て取れたが、それ以上は見えず。


80mの谷落合付近から川上側を見る
壁が回り込んでいるように見える

920m二股の左股
推定女川木滝

920m二股の右股も
滝となって落ちる

880m二股の
左股の滝

 左股も最下段の5mの滝壺からすぐ伏流となっている。880m二股より下の右岸は岩壁がなくなり転石の斜面になる。左岸は歩く所のない急斜面なので右岸に沿って路盤が下りていたのだと思うが転石が多いこともあってはっきりせず、女川木滝を特定できたことに満足してしまったので、引き返すことにする。


900mから下も路盤が
あるように見える

880mから下も路盤が
あるように見える

880m二股で
右股は大岩崩

 引き返すと左股の滝の下に転石が多くて来た時に気づかなかった四畳半ほどの平場が路盤の途上にあった。左股は滝壺から伏流して右股に合流するまで谷線を作っていないが、滝壺からまっすぐ右股に向かっているとすると、ちょうど左股の左岸にあたる位置に平場があった。平場には酒瓶らしき陶器の破片が落ちていた。路盤が谷筋に下りついた900mの所が龍辻越の最終水場となるので女川木滝の休場なのかと思ったのだが、丙戌前記では女川木滝の休場が出て「此処大崩岩、水なし」で、続けて女川木滝が出てくる。すぐ上の880m二股左股の滝壺なら水が無いわけではないのだが、委細谷の本谷には水が無いということで、880m二股の四畳半ほどの平場の所が女川木滝の休場だったのかもしれない。大崩岩は880m二股の辺りからその通りで、巨岩累々たる一帯である。880m二股より下は見下ろす限りでは880m二股より上ほど大岩は無いようであった。


陶器の破片

四畳半ほどの平場があった

 松浦武四郎は女川木滝の休場を「水無し」としているが、大阪わらじの会は「水が出てきたと思ったらここが二俣の出合だった」とし、遡行図でもすぐ下手で「再び水でる」とされ、880mの出合に「トロ」が描かれている。私が見た時に880m二股に水気は全くなかった。梅雨前の5月8日の松浦武四郎だが、前々日の晩に大雨があった。大阪わらじの会は近畿梅雨明けから一週間以内の7月17日である。明治19年から昭和41年までの間の大雨等でガレで伏流していた所の岩が流されてトロ場となっていたことがあったのだろうか。大阪わらじの会の記録では880m二股から左股の一番下の滝に取りつくまでが「目もあけられないようなヤブをくぐりぬけ」とされているが、私が見たのは暗い樹林下の石原で藪は無かった。植生というのは半世紀で大きく変わってしまうものだと思った。

 里程大和国著聞記の出口から龍辻まで「何モ大難所鹿道同前牛馬不通」とあるが、江戸時代の平野部住民の目で見る道としては「大難所」なのかもしれないが、沢登り(下り)としては伏流の転石ばかりの谷筋でそれほどのことなく坂本貯水池まで下りられるのが龍辻越の委細谷の谷道であったのだと思う。

参考文献
磯永和貴,江戸幕府撰大和国絵図の現存状況と管見した図の性格について,pp1-14,16,奈良県立民俗博物館研究紀要,奈良県立民俗博物館,1999.
玉井定時,奈良市教育委員会文化財課,里程大和国著聞記(玉井家文書庁中漫録20),奈良県立図書情報館.
奈良県吉野郡役所,奈良県吉野郡史料 下巻,奈良県吉野郡役所,1923.
笹谷良造,天保五年の大台登山記,pp397-407(29-39),2(9),大和志,大和国史会,1935.
松浦武四郎,松浦孫太,佐藤貞夫,松浦武四郎大台紀行集,松浦武四郎記念館,2003.
松浦武四郎,吉田武三,松浦武四郎紀行集(中),冨山房,1975.
畔田翠山,御勢久右衛門,和州吉野郡群山記 ―その踏査路と生物相―,東海大学出版会,1998.
大阪わらじの会,台高山脈の谷(下),大阪わらじの会,1977.



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(2021年10月24日上梓)