嶽の森の位置の地図

洞尾から
嶽の森 (376m)
だけのもり

 現地の標識を見ていると「嶽ノ森山」より「嶽の森」のようだ。一枚岩下手の相瀬橋から雌嶽(下の峰)の裾を通って雌雄鞍部から雌嶽に先に登り、雄嶽(上の峰)へ登り返し、名勝ナメトコ岩のある犬鳴ノ谷から一枚岩トンネル東口に下山した。翌年、足谷から再訪。江戸時代はシンプルに「嶽(だけ)」と呼ばれていたようだ。

嶽の森の地図1嶽の森の地図2

★相瀬橋〜雌嶽〜雄嶽(豆腐岩コース)

 相瀬橋の対岸からは嶽ノ森山の山頂部を見上げることが出来る。

 駐車スペースのすぐ上が小さな砕石場のようになっていて、その隅から2本の道が伸びている。左はコンクリ舗装で右は山道。右を取った。すぐ植林のソマ道の階段となり、急登だが、丁寧にジグが切られていてとても歩きやすい。途中、とうふ岩という麻婆豆腐を横から見たような岩を見つつ、更に階段とジグを登り、雌嶽岩峰の西の足のトラバースが続く。トラバースの途中から見上げる雌嶽の御足は、あくまで白く輝いていた。最後の鞍部の登り数mは急傾斜で登りにくく、ロープが掛けてあった。この道は元は営林のための作業道だったのではないかと思う。


駐車場から
コンクリ道を上がる

砕石場の奥の
二股を右へ

はじめは
杉植林の急登

とうふ岩

上部は
照葉樹林

鞍部直下は
ロープ有

 鞍部から雌嶽へは少し岩場があり、一部ではコシダが少し道にかぶっていた。最後に雌嶽尾根上をたどる道と合流するとすぐ山頂。尾根上の道はどこから尾根に上がるのか分からないが、あまり歩かれていないようだ。コシダがかなり茂っていた。雌嶽(下ノ峯)の標高はハンディGPSでは雄嶽(上ノ峯)より15mほど低かった。


雌嶽の西面を見下ろす

 雌嶽山頂の雄嶽側は切れ落ちている。山頂の祠には「洞尾村中 弘化四年」の字が彫られていた。江戸時代からあった祠である。洞尾(うつお)は嶽の森の古座川の対岸の集落である。嶽の森は元々、洞尾の信仰の山だったのではないか。一枚岩トンネルの完成で国道から離れてしまった洞尾からも嶽ノ森を見ておけば良かったと帰宅してから後悔した。

 鞍部から雄嶽へは岩場はないがロープはある。雄岳は雌岳に劣らず展望が良い。あまりこの辺りの山に詳しくない自分でも烏帽子山と大雲取山、大塔山と法師山くらいは分かる、分かっていたつもりかもしれないが・・・。雌岳山頂と違って寛いでいても転落の心配もない。雌岳山頂の切れ落ちた岩は、雄嶽から眺めると巨人の顔に見えるといわれるが・・・?雌岳同様、「洞尾村中 弘化四年」の祠があったが、雌嶽のものより荒れていた。一枚岩は残念ながら雄嶽からも雌嶽からも見えない。しかし洞尾の集落は見える。


雌嶽(下ノ峯)の
白い足

雌嶽へは
南側を回り込む

雌嶽から望む
雄嶽

雌嶽(下ノ峯)尾根上の
道はコシダが茂る

雄嶽(上ノ峯)
山頂

雄嶽から
雌嶽を望む

★雄嶽〜一枚岩トンネル東口(犬鳴の谷・洞尾)

 犬鳴谷へは山頂直下の岩場を降りて峰ノ山方面への縦走路分岐からヒノキの植林の若木の中を下る。このあたりの2.5万図の登山道は誤っていて(2009年2月現在)、犬鳴谷は一本西側の谷である。しばらくして成長した杉の暗い樹林に移ると水がわずかに流れる沢を渡り、左岸をトラバースするように下る。沢は急速に深くなり、まもなくロープで深い沢の中に下りる。ナメトコ岩の始まりである。

 此処はすごい。自然の三面張りの岩の中である。岩には四角い足場が彫ってある。これはノミによって人力(手掘り)で削られたようだ。濡れ易い枝沢を渡渉する足場は大きめに彫られている。

 ナメトコ岩が終わると急斜面のトラバースになるが、きれいに整備された道で危険な部分には踏み外さないようにチェーンが張られていた。ジグも丁寧に切られて歩きやすい。至れり尽くせりの登山道だ。下には遥か下まで切れ落ちた犬鳴滝(但しこの時期殆ど水無し)、上には雄嶽が望まれる。「犬鳴」は犬鳴滝のえぐり取ったような岩の様を言った「ゑり(彫)・ぬき(抜)」だと思う。

 そのままジグを切って照葉樹林の中を下りて、一枚岩トンネルの脇に下山した。最後の最後、もう車道がすぐそこに見える辺りに広場があり、それより下が多少不明瞭であったが問題はないだろう。登山口付近に石祠があり文久三年と刻まれていた。この石祠から下が3本ほどに分かれていて尾根の西側から一枚岩トンネルのすぐ脇、尾根の末端、尾根の東側の針葉樹林に入り、防獣ネットのある東側の谷の奥にそれぞれつながっている。

 下山後、一枚岩鹿鳴館(物産センター)で飲むコーヒーが美味しかった。


ヒノキの
若木の中

石英粗面岩に
ステップ

ナメトコ岩

ナメトコ岩

犬鳴ノ谷道下部

雄嶽より峰ノ山方面

★再訪嶽の森(足谷・犬鳴ノ谷)

2010年1月9日(参考時間:相瀬橋-0:35-雌雄鞍部-0:10-雄嶽西鞍部-0:05-雄嶽-0:30-一枚岩トンネル東口)

 串本駅レンタサイクルで国道371号線を鶴川へ走り、まずは洞尾からの嶽の森の姿を確認。洞尾からの嶽の森は完全なる双耳峰で雄嶽と雌嶽が並び立つ姿である。雌嶽の方が高く見える。嶽ノ森は麓からでは洞尾の淵・洞尾橋付近から眺めるのが最も迫力ある姿だと思う。

 国道371号線の峠は、すぐ西隣の峠が六郎峠と地形図に書いてあるが、峠の名前が地図などの書物で調べてみてもよくわからない。串本の駅前でお喋りしたタクシーの運ちゃんは一雨峠(いちぶりとうげ)と言っていたような気がする。一雨は古座川沿いの地区名だが峠の南側の二部(高富)側にも「一雨」と言う名のモーテルがあった。国道の峠の西500mに六郎峠がある。吐生から鶴川に抜ける六郎峠は大辺路のサブルートとして重要だったとどこかで読んだような気がするが、二部から鶴川への道としてではない。六郎峠の由来が轆轤(ろくろ)で表現されると言われる木地師の在住に由来するのであるならば、六郎峠一帯に含まれていることは確かであるし、昔の街道の六郎峠と同様に木地師が住みそうな山間である国道371号線の峠の名も六郎峠となるのも時代の流れであるのか。ネットを見ていると国道371号線上の峠も六郎峠としてしまおうとする流れにあるように感じる。鶴川では司馬遼太郎氏の元山荘を見る。

 足谷は相瀬橋から。豆腐岩コースを分けた先、右岸のコンクリ舗装はすぐに終わって杣道となる。右岸の斜面に張り付いた道で、下には小規模ながら足谷が深く狭く暗く険悪な谷を穿っている。道も一部で岩を削って足場を作っている。一度谷は開けて沢筋も近くなるが、大きな倒木があり、その周辺で道が不明瞭だった。再び谷は深くなる。対岸の急斜面に張り付いた炭焼釜の跡が見える。小さな滝があり、その上で左岸に渡る。道はジグを切るようになる。杉の落枝に覆われているが腐りかかった古い丸木の階段が道の目印となる。道でない部分には羊歯が多くなる。

 標高230mの二股で間の尾根に付き、ジグザグに登る。尾根のやや右寄りへ進み、雄嶽と雌嶽の間のコルの直下に上がり、雌嶽の南斜面の道(豆腐岩コース)と合流する。その僅かに下で雄嶽の直下をトラバースする道を分ける。雄嶽の足元を巻く道は多少アップダウンがある。雄嶽の岩はハングして、この道にのしかかっているように感じる。最後に一登りして峰ノ山との稜線に出て、右に僅かに進んで犬鳴の谷登山道の分岐を経て雄嶽、左に進めば峰ノ山方面。

 一枚岩の国道の対岸にある「どんどろの森」で達磨岩に登ると嶽の森の良い展望台になる。岩の上には達磨様が祀られている。洞尾の小字の名でもある日南川(ひなたがわ)をはさんで、一枚岩の側面からの薄く切れ落ちた姿も珍しい。一枚岩がスライスされた一枚だったとは・・・。「どんどろ」が何を指しているのかよく判らなかったが、昔は洞尾日南川と相瀬を結ぶ一枚岩を迂回する峠道(ドンドロ坂)があったという10)。今の地形図にはその人の気を引く名称も古い道を示す点線も記載されていないのが残念な感じがする。

 熊野市史は熊野市内の芦谷・足谷に対して「悪谷」の仮借と解き、「林葬で死骸が捨てられたのでこの名がある」と続けるが、死骸を捨てることは「悪い」で済むことなのか。本当に死骸を「捨てる」ことなどあったのか。ここの場合は古座川への吐合では大人しく歩きやすそうな渓相なのに、中に険しい場所があるのでシク活用形容詞「悪し」の語幹用法で「悪し・谷」なら単に通行に悪い谷のことではないかという気がしたが、道が付けられる程度の険しさの谷が「悪し」というのか疑問である。相瀬の「端谷」、初代の相瀬橋より新しい地名なのかどうか分からぬが相瀬橋の袂の「橋谷」などの転訛も考えられるのではないか。


足谷
最初はシッカリ道

少し
険しくなる

一旦
荒れる

対岸へ
渡る

炭焼き釜の跡
険しい谷に
張り付いている

羊歯が生える

杉の落枝が多い

★古座川周辺


飯盛岩(めしもりいわ)
飯にしては尖り過ぎて
いるような
斎藤拙堂の玉筍峰

相瀬橋から国道371号線の
トンネルを2つ越えると
北側に飯盛岩が見える
旧道のトンネルの真上にある

牡丹岩の牡丹の花の
ような部分は
牡丹岩の巨岩の中でも
上部のごく一部

一枚岩
本気ですごい岩だと思った
斎藤拙堂は斎雲岩としたが
無理があったと思う

犬鳴ノ谷上部から
天柱岩の上にも行ける様だ

天柱岩(てんちゅうがん)
薬研岩(やげんいわ)ともいう
紀伊続風土記は平太嶽と書く

達磨岩

神水瀑(ヤナコの滝)

少女峰

三山冠(烏啼峰)

明月岩
古座川八勝
  • 少女峰(十七嶽)
  • ?魚潭
  • 明月岩
  • 巨人岩(三山冠?)
  • 玉筍峰(飯盛岩)
  • 斎雲岩(一枚岩)
  • 滴翠峰(嶽)
  • 清暑島(丸島・河内島)
古座川十四勝
  • 菟月岩
  • 汝奩台
  • 破仏岩
  • 牡丹岩
  • 高士峰
  • 望仙台
  • 桃源郷
  • 仙女岩
  • 烏啼峰
  • 神水瀑(柳郷(一雨)の滝)
  • 髑髏岩
  • 蓬莱岩
  • 鳴瀧
  • 地蔵岩

 嶽の森山頂には金毘羅権現が祀られ、洞尾では嶽ノ森山(=大嶽)に近世は参詣していたと言う1)2)3)。雄岳にも雌岳にもあった祠は金毘羅権現のものだったか。

 嶽の森の別名と言う滴翠峰もそうだが、天柱岩や神水瀑や三山冠などという地名はどうも気障で、自然発生的でない雰囲気を感じる。滴翠峰を含む古座川ノ八勝は江戸時代の儒学者・斎藤拙堂が万延元(1860)年の旅行で地元の人の呼称は俚俗だからと土地の人(橋爪周輔)に頼まれて中国風の地名をつけたもののようだ。

 天柱岩・神水瀑・三山冠なども斎藤拙堂の命名かと考えていたが、違うようである。司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズでは天柱岩らしき地名が「天柱山」として斎藤拙堂の命名と言うことで登場した。が、斎藤拙堂の南遊志を読むと舟で古座川を遡り、舟のまま一枚岩で引き返しており、更に上流の天柱岩は出てこない。「街道をゆく」シリーズには司馬遼太郎の記憶違いがあったように思われる。

 昭和になってからの南遊志の版では古座川八勝とは別に古座川十四勝と言うものがあると注釈で書かれていた。その注釈をつけた大正12(1923)年の庄司海村による「古座川」では、神水瀑については古座川二十二勝(22=8+14)に含まれるが、三山冠・天柱岩については記述がない。三山冠は昭和8(1933)年に俳人松瀬青々が西国順礼の途上に立ち寄り、「恰も三山冠その儘といふ姿をした山」であると、「鶯や三山冠の前の宿」と吟じたのを、昭和天皇の即位の儀式で使われた三山冠を意識して地元の人が新名所ということにしたようだが、俳句が地形を例えたのを地名にして更に名所とするのは、元からある地名を詠んだ名歌によって名所となるのと順序が逆である。天柱岩は鷲田碌翁らによる大正10(1921)年の古座渓探勝記にヒントがあるのではないかと思っているが未見につき不明。古座川町の図書館に行きたい。南遊志の斎雲岩=一枚岩のように元の俚俗な名も載っていればと思っている。

参考文献
1)古座川町老人クラブ連合会,移り変わるふる里古座川,古座川町老人クラブ連合会,1991.
2)仁井田好古,和歌山県神職取締所,紀伊続風土記 第3輯 牟婁 物産 古文書 神社考定,帝国地方行政学会出版部,1910.
3)五来重・豊島修・二河良英,東牟婁郡,和歌山県の地名(日本歴史地名大系 第31巻),下中邦彦,平凡社,1983.
4)斎藤拙堂,南遊志,佐藤雨渓,1882.
5)斉藤拙堂,庄司海村,南遊志,瀧川旭文堂,1936.
6)斉藤拙堂,庄司海村,南遊志,京華出版社,1961.
7)斎藤拙堂,拙堂紀行文詩,紀行日本漢詩 第3巻,富士川英郎・佐野正巳,汲古書院,1992.
8)司馬遼太郎,熊野・古座街道、種子島みちほか(街道をゆく8),朝日文芸文庫,朝日新聞社,1979.
9)森平さと,熊野紀行 鮎の道・古座川,新和歌山新報社,1999.
10)浜畑栄造,地名考,p19,1,ふるさとくまの,浜口印刷,1981.
11)浜畑栄造,熊野史地名考,熊野市史 中巻,熊野市史編纂委員会,熊野市,1983.
12)庄司海村,古座川,ユヤ出版協会,1923.
13)松瀬青々,西国順礼記(三),pp2-15,22(6),倦鳥,倦鳥発行所,1933.
14)北尾鐐之助,近畿景観 第4編 紀伊伊賀,創元社,1933.



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(2009年2月7日上梓 2010年2月4日足谷コース追加)