トウヤウスベ山と大麓山の位置の地図大麓山(1459.5m)
トウヤウスベ山(1400m)

 大麓山は「北の国から」で有名になった富良野・麓郷の奥にある山。東京大学の演習林内の山と言う事で、収益を上げる「営林」の行われていない、原生に近い林が見られると思っていたのだが、そういう山ではなかったようだ。演習林でも「営林」は行われていると言う。山頂からの富良野岳の展望が素晴らしかった。あまりスマートなコース取りでなかった。


大麓山地図

 麓郷ふらりんYHが登山口に最も近い宿となり、ここの富良野駅からの送迎を使うと、バスより安く登山口に近付ける。登山口まで1.7qだ。

 更に山側へ進んで麓郷盆地=布部川扇状地の扇頂から山間部に入っていく。入ってまもなく東大演習林の鎖がある。車はここまで。

 ゲートのすぐ先で道は二手に分かれるので左に入る。右手に入って、地形図上で二重実線の太い道を行った方が確実と思ったが、遠回りになるので山腹まで登れば残雪を伝って近道できると考え左に入った。

 左手に入った道は布部川の支流の中白鳥川沿いに標高を上げていく。原生の林が見られるかと期待して入ったのに林内は他の林と変わらず、所によっては荒れた感じがしてちょっとがっかりした。特に見るものもなく淡々と登っていくのみ。地形図にある通りに林道の支線が走っていて(新しい版の地形図では無くなった)、緩やかな何もない地形だが、現在位置の確認はしやすい。

 標高660mの地図上の十字路の上流側の道は既に廃道で整備されていなかった。しかし、この標高でもまだ残雪が現れないので、ヤブに還り始めた沢沿いの道を歩いてもう少し標高を上げることにした。雨裂に水が流れ、道としては歩きにくい。

 標高800mで道は沢を離れU字を描き、大麓山の山腹をトラバースするようになる。この辺りから残雪が現れ始めた。2002年は雪解けが早かったので、普通の年のゴールデンウィークならこの辺りで十分な残雪があると思う。道跡には生え揃ったトドマツの若木が育ち、どうも原生林とは思えないことにまたがっかりする。雪の多そうな斜面を選んで道をはずれ、残雪を伝って標高を上げていく。林内はトドマツ一色でほとんど樹齢も揃っており、伐採した切り株も見られる。一歩植林内に入れば針葉樹林下なので硬い雪が残っている。しかし目標がなく登りにくい。もう少し水の少なかった谷筋を詰めて山の北面の残雪を登った方が楽だったかもしれないと思う(図緑色線)。

 標高1100m付近で南向きの尾根を回りこんで、太い林道に合流する。大麓山の山頂が初めて見える。まだまだ高い。無雪期に登るとしたらはじめからこの太い林道を登ることになるのだろうが、太い林道歩きはあまり楽しそうに思えない。

 西の鞍部に達し、地図上で太い道から歩道に表記が変わる地点に大麓山登山口を示す棒杭が立っていた。だが、ここから上だけだったら登山としてはつまらなかろう。斜面は雪に覆われて、どこが登山道かは判然としなかった。殆どはすっきりした雪面だが最後に丈の高いハイマツと低いアカエゾマツの密林を漕いで山頂に飛び出した。

 山頂からの景色は素晴らしい。裏から見た十勝岳連峰が広々と横たわる。トウヤウスベ山の山頂のアカエゾマツは五厘の丸刈りの頭のようだ。北東からスノーモービルの遠い音が聞えたがそれさえも些細なことに過ぎないように静かな山頂だった。

 北西方向にははっきりした踏み跡があった。地図にある南西に伸びる尾根上にも踏み跡がかなり遠くまで見えた。

 トウヤウスベ山への尾根は晴れていたので問題なく行く。山頂には大麓山から見た通り、背の低いアカエゾマツが五厘の坊主頭のように生えていた。1083m峠(ポンルーチシ)までも緩やかな疎林であった。


左から富良野岳、三峰山、上ホロカメットク山、十勝岳。手前はトウヤウスベ山。


★山名考

 大麓山の名の由来は、昔の東大総長であった菊池大麓氏の名に因るという。そして大麓山の麓だから麓の集落が麓郷と名づけられたという。

 トウヤウスベ山の名はアイヌ語の to ya ous pe[沼・の岸・に尻がつく・もの(山)]で、山裾が原始ヶ原の沼の岸に接していると言うことと思われる。

 松浦武四郎の安政5年の日誌に富良野岳と前富良野岳の間のルウチシからの眺望で南東方に望まれるとされる「ヌモツベノボリ」は大麓山のことかと思われる。布部川(ヌモッペ)の水源の山(nupuri)との意であろう。日誌の挿画では手前に来るトウヤウスベ山と重なって描かれて一つの山名「ヌモツペノポリ」があり、布部川本流の源頭にあたるのはトウヤウスベ山なので、大麓山とトウヤウスベ山を合わせての「ヌモツペノポリ」と思われる。標高で代表させるなら、より高い大麓山の位置となろう。

 ヌモッペ=布部川は ru w -ot pe[道・(挿入音)・についている・もの]の転訛のように聞こえる。布部川本流の源頭はトウヤウスベ山と富良野岳の間の鞍部で、「ホンルウチシ」と先の松浦武四郎の日誌に出ているが、布部川の落ち口からそのポンルーチシを越えた先に向かうのは空知川源頭域や十勝川源頭域といった深い山間ばかりなので、布部川本流沿いがルートであったとは考えにくい。支流のポン布部川沿いがルートで、石狩平野北部や富良野盆地中央部から大回りする空知川を避けて十勝平野北部へ向かう冬道ではなかったかと考えてみる。転訛して意味が分からなくなったのと、西達布川沿いの別ルートが開発されるなどしてルートとして使うアイヌの人が減ったので、本来本流であったポン布部川に水量が少ないということで pon[小さい]が付けられたのではないかと考えてみる。

 「〜についている」の -ot は、戸口や窓のすだれに関して用いられるという。ru[道]も何かが通り抜ける処という意味で、戸口や窓のようにも捉えられたのではないかと考えてみる。

 ヌモッペと似た音のルルモッペなどとされる留萌の留萌川も ru w or -ot pe[道・(挿入音)・の所・についている・もの]か、ru oro w -ot pe[道・の所・(挿入音)・についている・もの]の転訛ではないかと考えてみる。留萌川を越えると低い鞍部で石狩平野北部に出る。天塩北部海岸地方から石狩平野北部・上川へのルートではなかったかと考える。

参考資料
石城謙吉,森はよみがえる(講談社現代新書),講談社,1994.
富良野・森の見聞録 一枚の葉っぱから地球を想う,256(6),THE JR HOKKAIDO,北海道ジェイ・アール・エージェンシー,2009.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
松浦武四郎,秋葉実,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.



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(2003年6月3日上梓 2017年10月6日改訂)