下ホロカメットク山(1668.1m)
石狩側からは一列に並んでいるように見える十勝連峰だが、十勝側に突き出した支脈があってT字型に山が並んでいる。そのTの字の足の先の部分に他の山々より少し低く、ぽつんと存在している山が下ホロカメットク山である。その形はほぼ完璧な円錐形で尋常でない美しさである。山自体の形の美しさもさることながら、隣の境山との吊尾根はほぼ完璧な双曲線を描いており、私は大雪山系の山々からこの曲線を見るたびに魅了されている。下ホロカメットク山の形は鹿児島県の開聞岳とよく似ているが、標高は遥かに高いものの比高は開聞岳より小さい。また、少なく小さいながら放射谷があるので螺旋コースで登るわけにはいかない。
登山ルートとしては残雪期に富良野岳原始ヶ原登山道から深い針葉樹林帯を横断するか、山には雪、林道は無雪のコンディションを狙って十勝側の奥十勝林道から北斜面を登るルートが考えられる。時期が早ければ十勝岳温泉から上ホロカメットク山、境山を経由して山の稜線を縦走するルートも可能だろう。幾つかの書物で紹介されているのを見た。私は原始ヶ原を横断するルートを採った。
2002年は雪が少なく原始ヶ原登山口までの林道に雪は全く無し。
富良野岳原始ヶ原登山口から林間コースを選んて原始ヶ原を目指す。林間コースは殆どが作業道跡なので雪が残っていても幅広く歩き易い。最後の3の沢の川岸部分は面倒なトラバースが続くがそれほど長くない。
3の沢を渡り20mほどの台地を一登りすると原始ヶ原に到着する。後は原始ヶ原の雪原をひたすら1083mの原始ヶ原最奥のトウヤウスベ山と十勝連峰のコルを目指して直進する。原始ヶ原は疎林で見通しは良い。景色も良い。最奥の五反沼は湧き水があるようで、少し水面が開いていた。
1083m鞍部からは見通しの悪い暗い針葉樹林だが、天気さえ悪くなければ時折見える下ホロカメットク山を目指せばよく、問題はない。途中3本の川はスノーブリッジがあったが、水も多くなく飛び石で渡れた。途中、細長い湿原か、南北に細長い木の無い所を何度か横断する。
1083mコルはポンルーチシ(小さい・峠)というアイヌ語地名が伝わる。ポンルーチシは安政5(1858)年に松浦武四郎が通った山越えルートだったことが佐藤(1996)によって明らかにされたという。ポンルーチシは松浦武四郎の日誌にあるが、フィールドノートである手控には出てこないようである。
下ホロカメットク山の真西の沢地形から登ることを計画していたが、雪がないようなので境山とのコルまで北に回り込んだ。一の沢は完全に雪で塞がっていたが、左岸が急斜面になっていたので真西の沢型に雪があったとしても北側に回り込んでいたと思う。
吊り尾根のコルは湿原のようで小さな池があった。コルからの登りだが、支庁界のすぐ南の浅い沢地形が広葉樹の疎林で登りやすく、1550m付近まで雪が残っていた。それより上ではカーペットが広がっていた。山麓のハイマツは猛烈だったが、1550m辺りまで上がるとハイマツの丈も低くなり、簡単に歩けるようになった。残雪には6本以上の爪のアイゼンがあった方が良いように思う。下りは気持ちの良いグリセードが出来た。
この山は二重式火山のようで、標高1600m近辺に下の火山の火口縁があり、僅かに平らになっている段があるのが登っていると分かった。鹿児島の開聞岳の鉢窪と同じだ。しかし山頂は開聞岳と違って狭く、痩せていてテントを張れるスペースもないところは違う。東斜面を見下ろすと麓から山頂直下まで雪が続いている様子が見えた。登るなら東側からの方がずっと雪で楽そうだ。
展望は最高。前富良野岳からオプタテシケ山までの十勝連峰全山が揃って見える。トムラウシ山は鋭く東大雪もニペソツ山はもちろんウペペサンケ山や石狩岳も尖って見える。西の横断してきた樹海は静かだが、東の方は造林の作業道が網目状になっている部分が見えて少しうるさいように感じる。これだけの広い平坦地が林業しか行われていないということに改めて驚きを感じる。
下ホロカメットク山から眺めた十勝岳連峰(前富良野岳〜オプタテシケ山)
明治24(1891)年に神保小虎は北海道地質報文で、この辺りの山名として「カムイメトッ」と「ホロカメトッ」を記している。
明治27(1894)年の北海道庁による北海道実測切図では下ホロカメットク山と思しき位置にパナクシホロカメトクヌプリと記されていた。二つめのクは小文字である。明治29(1896)年の陸地測量部による北海道仮製五万分一図ではパナクシホロカメトックヌプリと記されていた。メットクではなくメトックであった。北海道実測切図の「メトク」は神保小虎の「メトッ」を何らかの解釈に基づいて変更したようにも思われる。
解は神保小虎の記した名で完結しているならば、下ホロカメットク山の「ホロカメットク」の部分は horka metot[後戻りする・深山幽谷]ではないかと言う気がするが、前半の horka はルートとしての川を修飾している例が多い。だから更に後ろに、北海道実測切図や仮製五万図ではその川の水源の山として nupuri が付いて pana kus horka metot nupuri[川下の方・を通る・後戻りする・深山幽谷・山]になったかと考えてみるも metot[深山幽谷/山中]を一つの川のように扱って良いのかどうかよく分からない。神保小虎のように metot[深山幽谷/山奥]が山名語尾となるのかどうかも分からない。metot を一つの川の源頭域とみなせるとしても、川としての pana kus horka metot や、pena kus horka metot や、kamuy horka metot(上ホロカメットク山と関連)をどの川/谷か特定しなければ、山の名としての解釈につなげられないような気がする。
仮製五万図のパナクシホロカメトックヌプリの、ヌプリの前のクも説明が付けられない。〔pana kus〔horka metot〕〕ku nupuri[川下の方・を通る・川の流れる方角が下流と上流で逆になる・山中/深山幽谷・を飲む・山]ならカタカナで書けば、パナクシホロカメトックヌプリとなるが、「山が山中/深山幽谷を飲む」と表現してよいのかよく分からない。ある河谷が一つの山に飲まれているというイメージは想像できないことも無いが ku[飲む]を地形を主語にして地名中に使った例を知らない。資料中に登場した順序から考えて、はじめは「メトッ」だったのが「メトク」になり、更に前の資料が振り返られて小文字の「ッ」が復活したものの「ク」の音も無視できないような気がして「メトック」になったのか。
メトックがメットクになったのは、仮製五万図では右横書きなのに小文字の「ッ」が前の音の右下に付くので、誤読されて新しい地図で「メットク」となったものと考える。
本来がメトッなら ku[〜を飲む]と言うアイヌ語が使われたという想定が、意味以前に不適切と言うことになりそうである。メトクであったとしてもクが小文字で表記されているのであるから、ku を考えるのは不適切であった。メトク、メトックという音からは地名においては水源などを指す時に用いられる例の多いアイヌ語の etok[〜の前]と言う言葉が連想される。horka である何某かの川の etok なら「メ」の音に川の名が隠れていると考えることも出来そうだが、その「メ」を mu -i[塞がる・所]などかと考えてみるも勾配のきつい山間の源頭の河川の落ち口などが塞がっていることはあり得ない気がする。tok[凸起]というアイヌ語が地名アイヌ語小辞典にあるが、20世紀末の新しいアイヌ語辞典に項が見られない。それ以前に下ホロカメットク山などは出っ張り程度で表現されるような小さな山ではなく、「メ」の音にも説明が付けられない。もっと神保小虎の記録を素直に読んで、horka な metot とは川/谷ではなく十勝側から見て手前に戻ってきているような深山幽谷としての境山や下ホロカメットク山のある尾根で、kamuy な metot が最奥の上ホロカメットク山周辺の十勝岳連山の主稜線と考えるべきなのだろうか。だが、川の名に付けられた horka は数多いが、尾根のあり方を指しての horka の例を知らない。
北見の頓別川の支流鬼河原川源頭に明治30年の北海道実測切図と明治31年の北海道仮製五万分一図に metot に近い音の「モトツ」を山名語尾として用いたオロウェンシュプンモトツ、オロピリカシュプンモトツという山名表記があった。現在の鬼河原川か一已内川のどちらかにあたりそうな川がシュプウンナイと記されているが、オロウェンシュプウンやオロウェンシュプウンナイ、オロピリカシュプウン、オロピリカシュプウンナイといった支流の名までは記されていない。シュプウンナイの支流のオロウェンシュプンの水源がオロウェンシュプンモトツで、オロピリカシュプンの水源がオロピリカシュプンモトツと思われる。この「モトツ」を metot と考えてよいなら nay のような川名の語尾は、その水源付近を指して省略される或は metot と入れ替わることがあると考えてよいのか。アイヌ語山名では川を指す pet や nay が落とされて替わりに山を指す nupuri などの言葉が入り、「・・・川の水源の山」といった意味の山名となっていることが見られる。
pana kus horka metot とは〔pana kus〔horka (SORAPCI)〕〕metot ということで、下ホロカメットク山の東に水源を発するホロカソラプチ川の山奥であり、ホロカソラプチ川がパナクシホロカソラプチで、「パナクシホロカソラプチ(川)の水源(の山)」といったニュアンスになったものか。下ホロカメットク山の西の境山に水源を持つ支流である一の沢が、上ホロカメットク山に突き上げるシイソラプチに対してパナクシホロカソラプチと似たような位置関係にある pena kus〔horka (SORAPCI)〕であったか。現在の地形図ではホロカソラプチ川は下ホロカメットク山に接しているが、ホロカ十勝川は接していない。
空知川源流域のアイヌ語の川の名推定と 松浦武四郎の安政5年トカチ越え推定路の地図 |
だが、ホロカソラプチ川の位置は明治時代の地形図より今の位置とあるが、シーソラプチ川に対して horka な位置と言えるのか、90度曲がって外側に向かっており、後戻りしているという感じではないので疑問の生ずる所である。
また、上ホロカメットク山の位置も一の沢の源頭というわけではない。horka の川の名の、上流が下流側の方ヘ向かっている他の例から考えて、現在「ホロカソラプチ川」とされているのがシイソラプチで、「一の沢」とされて下ホロカメットク山と境山の間に流れているのがパナクシホロカソラプチ、「シーソラプチ」とされて上ホロカメットク山に突き上げているのがペナクシホロカソラプチではなかったかと考えてみる。こう考えると、ホロカソラプチが horka の例外とならず、山の名がその川の水源ということで川の名と一致する。明治の地図でホロカソラプチの位置の誤記載があり、現在まで踏襲されていると考える。十勝川の si-(又は無印)と horka の位置関係は現行で妥当であり、ホロカ十勝川に接していない両 horka metot nupuri は十勝川の流れに関する名ではない。
だが、そう考えるとシーソラプチ川と一の沢の上下関係が問題になる。空知川の上手に位置する horka の分流が一の沢で、下手の分流が上ホロカメットク山に突き上げる現在のシーソラプチ川である。山の名は神保小虎や北海道庁の測量に把握されたが位置に曖昧さが残り、ペナクシホロカとパナクシホロカの川の名が把握されず、先行する東西蝦夷山川地理取調図でシノマンソラチがヲタッテシケとヒヱノホリから下っているように描かれていることもあって、ホロカソラプチの流れを分流のない支流の川と誤認することで川のペナクシホロカとパナクシホロカの想定・推定が困難になり、空知川源頭域だけから見て下手に位置する「山」にパナクシホロカメトクヌプリ=下ホロカメットク山と、上手に位置する山にペナクシホロカメトクヌプリと、川の名に由来する山名であったと考慮されずに名が振られて、現在まで踏襲されていると考える。
下ホロカメットク山はペナクシホロカメトッヌプリ〔〔pena kus 〔horka (SORAPCI)〕〕metot〕nupuri[川上の方・を通る・後戻りする・(空知川の)・山奥・の山]で、現在の一の沢の源頭の山の意であったと考える。神保小虎の記録で metot が所属形の metoci でないようなのが気にかかるが、名詞概念形がそのまま並ぶこともあるのか。或いは metot は位置名詞なのか。
小泉秀雄(1918)は現在の下ホロカメットク山に「尖り山」や「槍ヶ岳」の名を提案しているが、定着しなかったようだ。これらの山名は坂本直行のスケッチなどのタイトルで用いられているのを見かけたことがある。小泉秀雄(1918)はトウヤウスベ山から下ホロカメットク山にかけての高原に「羆ヶ原」の名を提案しているが、こちらも定着しなかったようだ。「羆ヶ原」は、ヒグマは山間ならどこにでも居り、樹木が少なくヒグマを目にしやすい原というわけでもないので、無理のある提案だったのではないかと思う。
松浦武四郎の安政5年の十勝ルーチシ越の際の野帳である午手控の翻刻の頭注で解読の秋葉氏は松浦武四郎の記したサヲロノホリを下ホロカメットク山としている。しかし、氏の解読された松浦武四郎の文章を読む限り、サヲロノホリは佐幌岳で下ホロカメットク山については何も言っていないように私には読める。日高山脈主稜線上のルウチシ(峠・シーソラプチ川支流ニゴリ沢落ち口のすぐ東と推定)から磁石を南に切ってシノマイサヲロの小沢(西佐幌川と推定)とノシケタサヲロ(佐幌川本流(二の沢)と推定)の間を峯まま(尾根上を)進み、「右の方シノマイサヲロの向」にある「高山」は佐幌岳しかない。
上ホロカメットク山が下ホロカメットク山と対になる〔〔pana kus〔horka (SORAPCI)〕〕metot〕nupuri であったかには疑問がある。北海道実測切図では、現在のシーソラプチ川の最奥にペナクシホロカメトクヌプリと振られ、十勝岳連峰の主稜線とパナクシホロカメトクヌプリへの稜線の分岐点となっているが、十勝岳連峰の主稜線がクランク状になっており、十勝岳側の北北西に「カムイメトクヌプリ」の名がある。ペナクシホロカメトクヌプリ(1933m)とカムイメトクヌプリ(1936m)の二箇所で主稜線が屈曲してクランク状となっている。クランクの西側がおかしいようで、南側に撓みながら前富良野岳方面に連なっており、三峰山と富良野岳に相当するピークは描かれていない。
カムイメトクヌプリとペナクシホロカメトクヌプリとパナクシホロカメトクヌプリはほぼ直線上に並んでおり、カムイメトクヌプリとペナクシホロカメトクヌプリ、ペナクシホロカメトクヌプリとパナクシホロカメトクヌプリの距離間隔はほぼ1:4である。カムイメトクヌプリとパナクシホロカメトクヌプリの距離は約6.5kmで、現在(2017年)の地形図での上ホロカメットク山と下ホロカメットク山の距離約6.2kmと大きな差はない。現在の地形図で、上ホロカメットク山をカムイメトクヌプリと見なしてペナクシホロカメトクヌプリの位置を見ると1850mのコブがある。ペナクシホロカメトクヌプリとは別に現在の境山に相当するピークが名無しで描かれているので、標高値も合わせて、1850mのコブがパナクシホロカメトッヌプリ pana kus horka (SORAPCI) metot nupuri[川下の方・を通る・後戻りする・(空知川の)・山奥・の山]で、現在の上ホロカメットク山はカムィメトッヌプリ kamuy metot nupuri[カムィの・山奥・の山]と考える。kamuy は連体修飾用法で「非常によい・美しい、非常に危険な。」と訳されるが、ここの場合は漠然と「最奥にあるのでカムィ的な」といったニュアンスで名づけられたのではなかったかと考えてみる。十勝岳連峰の山々は何れも美しく、天候が悪化すれば危険なのは何れの山も同じであり、以下で考えるように上ホロカメットク山は昔から直下にルートがあったことが考えられ、この山が特に「非常に危険」であるとは思えない。metot が共通しているのでカムイメトッも空知川の山奥ということかと考えたが、或いは崖の連なる上ホロカメットク山北西面のヌッカクシ富良野川の源頭が「非常に危険な山奥」と言うことだったかも知れないとも考えてみる。十勝川側は谷は狭いが等高線の間隔が広く、衛星写真等を見ても危険そうな感じがしない。
・pena kus horka(現シーソラプチ川)上流の支流名
北海道実測切図・北海道仮製五万図には現在のシーソラプチ川の支流名として下からセチリンペッ、ポロピナィ、ペケケヤッペッが記されている。セチリンペッとポロピナィが左岸支流で、十勝岳連峰主稜線に達する最も奥の川がペケケヤッペッである。明治時代の深い山間ということで、地形描写のあまり正確でない地図上の地名なので現在の地形図と衛星写真(GoogleEarth)からその位置を推定してみる。
標高1195m付近に境山から落ちる左岸支流がセチリンペッと考える。アイヌ語の situ or un pet[山の走り根・の所・に入る・川]の転訛と考える。本流との間に直線的な細い尾根を挟んでおり、この尾根を situ と考える。
ポロピナィは地形図上では谷筋がはっきりしないが、裂溝状の崖記号のある標高1400mの所で落ちる左岸の谷筋と考える。谷筋を230mほど遡ると上方から長く延びる広大な岩塊斜面に出る。この岩塊斜面の谷筋であると言うことの〔poro pi〕nay[大きい・石・河谷]ではなかったか。それほど広い谷筋でなく近くに小さい似たような谷地形も並んでいないので「大きい涸谷(poro pinay)」ではないと思う。
ペケケヤッペッは、崖の続く十勝岳から富良野岳の北斜面の中央にあって降り易いD尾根に入る処であることを言った par -ke -ot pet[口・の所・についている・川]の転訛と考える。富良野岳の南西のルウチシとは別の山越えルートであったと考える。「〜についている」の -ot は、戸口や窓のすだれに関して使われるようである。山の通りやすい鞍部も戸口の一種のようにみなされることがあったのではないかと考えてみる。
松浦武四郎らの安政5年十勝越えルート(子ページ)
参考文献
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