狭薄山位置の地図
狭薄山 (1296.1m)
さうすやま

 札幌近郊の数少ない縦走路である空沼岳-札幌岳の稜線のすぐ横にある道のない山。夏は豊平峡の奥の蝦蟇沢から登られるそうだが、アプローチと下山後が面倒なのでまだ行ったことがない。残雪期は比較的簡単に登れる。


稜線付近の地図・Aルート

 空沼岳の登山口から登る場合、真簾沼を突っ切って右の地図の「雪洞適地」の矢印の所へ出るのが早い。低い雪堤が段になっていて雪洞適地である。

 ジャンクションピークであるひょうたん池の台地には上がらないで、雪洞適地の鞍部を突っ切った方が早い。次のコブは北側が広くて巻きやすい。その次のピークも南面で巻きたいところだが、雪付きが悪くて巻けなかった。

 最後のコブと本峰は斜面が急になってくるので巻くより尾根線に忠実の方が良いかもしれない。稜線の東側には大きな雪庇が発達していた。本峰へは西側から回り込むように登るが北西面であることもあって雪面が硬かった。山頂からの展望は良い。空沼岳は知名度ほどは見栄えがしないと思った。札幌岳は札幌市街地から見るより遥かに立派である。

・Bルート

 冷水小屋だけでなく札幌岳豊滝登山口からのアプローチも考えられる。豊滝口はゲートから山道に入るまでなるい林道歩きが3q以上あって、雪がズポズポだと登る前に萎えてしまうかもしれない。沢が狭まってきたら気温が高い時は雪崩注意。残雪が十分なら登山道より盤の沢沿いの標高500m辺りから東の尾根に登った方が良いかもしれない。稜線直下は急な雪の斜面である。

 夏道縦走路では半分巻いてしまう稜線上のコブは急斜面で巻きづらい。私は結局上まで登った。

 地図上Bルート始点の鞍部から沢に下るが、ゴールデンウィークなら積雪十分で、問題なく蝦蟇沢を渡れそうな気がする。しかし、私が渡渉した地点より上流では水面が開いている所があるのが見えた。

 登る小尾根は取り付きが急だが、ヤブもなく幅も適度で気持ちの良い坂だ。ここの木で子リスを見かけた。


雪洞適地の鞍部付近
から見た狭薄山

狭薄山付近から見た
札幌岳


★山名考

 さっぽろ文庫の「札幌地名考(1977)」では、「山名はアイヌ語のサシヌで『山が狭まって谺する』の意味といわれるが、地形がそぐわないように見える。」としている。山としての地形もそぐわないように見えるが、音もサシヌとサウスではずいぶん違うのではないかと思う。同じく、さっぽろ文庫の「札幌の山々(1989)」では「サウスとはサシヌの変化で、山が狭くなっている意だというが、豊平峡にあてはめるとぴったりの感じだ。」としているが、20世紀末に相次いで発行された新しいアイヌ語辞典を見ても、山が狭くなっていると言う意味でのサシヌと言う言葉を見つけられない。また、豊平峡には狭薄山より札幌岳の方が近い。バチラーのアイヌ語辞典にアイヌ語の Sash(サシ) で名詞として「轟ク音」などとあり、次の項に Sashnu(サシヌ)で自動詞として「反響スル」「沙々ト鳴ル」とある。サウスの音に近い Sash の項がバチラーのアイヌ語辞典で引かれ、すぐ下に関連語として載るサシヌの「反響する」意味が、「山」から連想されるコダマの意に近いと付会されたものではなかったかと言う気がする。20世紀末の新しいアイヌ語辞典では sassasnu で音に関する意味を見つけられない。更に「札幌の山々」は「別に『ヤブが多い』との説もあり、頂上一帯の根曲がりの手強さに苦しんだ経験者なら同感するに違いない。」としている。高澤光雄(1962)が狭薄山の名を「Sar-usi(藪・激しい所)」と解釈しているが、ヤブならば札幌岳や空沼岳も登山道を一歩外れれば相当なものであり、サルシではサシヌほどではなくともサウスとはまた少し音が違うのではないかと言う気がする。

 村上啓司(1977)は「空沼入沢という沢名が”サウシ”という名だったと思われる。『浜の方に出る』意味で、真駒内川を結んでの交通路の川名とみる。」としている。アイヌ語のサウシ sa us -i[前・につく・する所]と解したか。

 村上啓司(1962)は「狭薄山はソーウシに由来する。」とする。「現在の豊平峡がポロ・ソー・ウシ・ペッ(大きな・滝・のたくさんある・川)で、薄別がポン・ソーウシペッ(小さな方の・ソーウシペッ)である。」とする。狭薄山山名考の地図

 ポロソーウシペッやポンソーウシペッといった川の名は現行の地形図に見られない。松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図(以下、取調図)に豊平川左岸支流として下流側からホロソウウシナイとホンソウウシナイが、ユウナイとシケレヘウシヘツの間に記されている。永田地名解では、取調図の表記を永田流に置き換えて解釈を記したものか、現在の小樽内川であるイヨチオマサッポロと、シケレペニウシュナイの間に下流側から「ポロソーウシュナイ 大瀧川」「ポンソーウシュナイ 小瀧川」を記す。山田秀三(1984)はシケレヘウシヘツを薄別川としている。永田地名解のシケレペニウシュナイも薄別川のことだろう。榊原正文(2002)はユウナイをアイヌ語の yu nay[温泉・川]で定山渓温泉の源泉附近ではないかとして、ホロソウウシナイとホンソウウシナイについては定山渓温泉と薄別の間にあるべきものと考えられるが該当しそうな河川を挙げられないとしている。

 詳細なフィールドノートを残した松浦武四郎だが、ホロソウウシナイとホンソウウシナイに類する記録を翻刻されたフィールドノートの中に見つけられない。見つけていないが「取調図」と題する以上は松浦武四郎が何の根拠も無しにこれらの地名を記したとは考えにくく取調図のホロソウウシナイとホンソウウシナイは別の記録から補ったものではないかと言う気がする。右岸か左岸か怪しい記録は松浦武四郎の豊平川上流の聞き書きにもある。

 狭薄山の西面の沢が狭薄沢である。豊平川本流域に張り出した狭薄山に突き上げてしまう沢で交通路とは考えにくく、それゆえに村上啓司(1977)は狭薄沢ではなく狭薄山の南側の空沼入沢を真駒内川流域と言う豊平川の「前」につくサウシとしたのだろう。榊原正文(2002)によると間宮林蔵の地図では豊平川上流の漁入沢か空沼入沢と考えられる位置にシコツヲマサツホロの流れが描かれるという。現在の千歳市の方へ抜ける交通路としての豊平川上流というものはあったのではないかと思われるが、それが空沼入沢だったかどうか、シコツヲマサツホロは小漁山附近から支笏湖・千歳川へ抜けられる現在の豊平川本流の名のような気がする。「狭薄」を sa usi[(真駒内方面という)前・に付く処]と解釈するには管見の限りであるが大正9年の陸地測量部の地形図で同時に登場する「狭薄山」と「狭薄沢」の名と表記の、「狭薄沢」を無視して狭薄山の南側の空沼入沢をサウシと入れ替えて考えなくてはならない。空沼入沢をアイヌ語のサウシ sa us -i[前・につく・する所]と考えるのは無理があるように思われる。

 大正9年発行の最初の五万分一地形図では現在の蝦蟆沢川が「狭薄澤」とあり、現在の狭薄沢川には名が振られていなかった。その「狭薄澤」が「蝦蟆沢」に、無名の沢が「狭薄沢」となったのは昭和10年発行の地形図からである。蝦蟆(ガマ)沢(蝦蟆の沢)から山越えすれば真駒内・簾舞方面へ抜けることは出来ないことはないだろうが、交通路として敢えて山間の豊平峡上流域から山越えして抜ける必要があったのかどうか。尻別川流域から中山峠を越えて真駒内に向かうにしても定山渓温泉を経由して豊平川本流に沿って下りた方が早いのではないかと思う。

 榊原正文(2002)は狭薄沢の落ち口を指しての sa us -i[浜(沖積地)・付いている・もの(川)]としているが、浜がアイヌ語で sa とされるのは、陸地から見て浜が海手の方向にあるからであり、狭薄沢の「サ」を沖積地とするのは拡大解釈に過ぎるのではないかと言う気がする。定山湖に沈んで本来の落ち口の様子を確認出来ない狭薄沢であるが、定山湖が出来る前の大正時代の五万分の一地形図では普通に狭い山間の沢筋であった。豊平川本流沿いの山道は左岸の河床から60m程高い山肌に付けられており、顕著な沖積地で川幅が広まっていたとは考えにくい。

 永田地名解には厚田郡のアイヌ語の山名としてサウシュヌプリが挙げられ、「濱方ノ山」と訳されているが、厚田川流域の北端近くに位置する海岸に近いこの山(北海道実測切図では「サウシ山」;現在の別狩岳726mか;樺戸山地の浜側の山並みといった意味合いか。或いはこの山も以下のようにso usの支流の山であったのに川の名が忘れられたか)の名は内陸の狭薄山の名の「浜の方にある」や「前に付く」といった意味合いでの類例にはならないように思われる。

 狭薄沢がホンソウウシナイ pon〔so us nay〕で、ソウ so us[滝・ついている]に宛てられた漢字が「狭薄」ではなかったかと考えてみた。狭薄沢の僅かに下流で豊平川に合流する蝦蟆沢をホロソウウシナイ poro〔so us nay〕と考えてみた。流域の広い蝦蟆沢の方が狭薄沢より水量は多い。

 so us nay はその沢筋に「滝が群在する川」と解すべきか、目印として落ち口附近の豊平川本流に「滝が付いている川」と解すべきか、蝦蟆沢も狭薄沢も遡行すると滝があるが、空沼入沢や漁入沢、豊平川本流にも稜線まで遡行すれば滝がある。蝦蟆沢の「蝦蟆」とは蝦蟇のカエルではなく或は「釜」で、落ち口に滝壺のようなものがあったかと考えてみたが今はダム湖の底である。だが、明治24(1891)年の北海道実測切図には豊平川の上流域に幾つか滝のマークが描かれるが、蝦蟇沢と狭薄沢の落ち口付近にはない。

 狭薄沢・蝦蟆沢がポンソウウシナイやポロソウウシナイであるかどうかには疑問が残るが、狭薄という山名や沢の名は旧記に見られないアイヌ語の sa us -i に由来すると考えるよりは、昔の地図にあったが現在の地図は見られないアイヌ語のソウウシナイと言う地名に基づいて漢字を宛てられたものと考えた方が良いような気がする。狭薄の最後が「す」になっているのは、明治時代の永田方正の北海道蝦夷語地名解での「ポロソーウシュナイ」「ポンソーウシュナイ」と、「シ」から「シュ」に改められたものに「す」となる漢字を宛てたものと考える。旧仮名遣いで前の「さう」が「ソウ」の音となる。

 豊平川の左岸支流である薄別川の表記は「薄」の字を狭薄沢・狭薄山と同じくするので関連を考えたくなるが、シケレペ(ニ)ウペッと言うアイヌ語の川の名の「シ」を「シュ」と置き換えた永田方正の表記法での後半のウシュペッの漢字を宛てたものが「薄別」であり、無関係である。取調図でシケレヘウシヘツがホンソウウシナイとは別に描かれているので、薄別川がポンソーウシナイとは考えにくい。また、豊平川本流を指すシノマンサツホロがホロソウウシナイとは別に描かれているので、豊平峡がポロソーウシナイとも考えにくい。

 サウスのウがあるのは第二音節の子音が声門破裂音ないし声門の緊張またはせばめで、ウははっきりした声立てとなったウであることを思わせる。取調図の定山渓温泉付近の豊平川左岸は誤りで、豊平峡温泉のある盆地を so[平らになっている所]として、盆地から奥に入っていった蝦蟇の沢と狭薄沢が、pon/poro〔so e- us nay〕[小さい/大きい・平らになっている所・の先・についている・河谷]だったのではないか、また so eus[平らになっている所・の先につくところ]とも呼んだのではないかと考えてみる。

参考文献
札幌市教育委員会文化資料室,札幌地名考(さっぽろ文庫1),更科源蔵,北海道新聞社,1977.
安田成男,狭薄山,札幌の山々(さっぽろ文庫48),札幌市教育委員会文化資料室,北海道新聞社,1989.
ジヨン・バチラー,アイヌ。英。和辞典及アイヌ語文典,教文館,1905.
高沢光雄,えぞ山名考 上,pp70-73.,16,北海道の山,北海道出版,1962.
村上啓司,北海道の山名について,北海道の山と谷,大内倫文・堀田克之,北海道撮影社,1977.
村上啓司,北海道の山の名 札幌附近と支笏洞爺の山々,pp65-72,125,林,北海道造林振興協会,1962.
松浦武四郎,東西蝦夷山川地理取調図,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
榊原正文,データベースアイヌ語地名3 石狩U,北海道出版企画センター,2002.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985..
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
陸地測量部,明治大正5万分の1地図集成1,古地図研究会・学生社,1983.
北海道庁地理課,北海道実測切図「樽前」図幅,北海道庁,1891.



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(2004年11月1日初版紛失に付き書き直し上梓 2023年1月22日山名考の頁を合わせる(山名考の頁は2013年12月31日上梓 2020年3月30日改訂 2023年7月11日改訂))