ペトゥトゥルンペ(795.8m)=三角点「辺止釣運瓶」 ホロカソッチ沢右股
pet utur un pe[川・の間・にある・もの(山)]

ペトゥトゥルンベの位置の地図 江戸時代の松浦武四郎の絵図や、明治時代の北海道庁発行の地図には名前があったのに、今は地形図に名前がないピーク。大正時代選点の三角点はその名を残していた。パンケ総富地川(砂金沢)とペンケ総富地川(総富地川本流)の間に挟まれていることによる命名と思われる。展望は良い。


ペトゥトゥルンペの地図 ルートはいろいろ考えられるが、東側の砂金沢(パンケ総富地川)の支流・ホロカソッチ沢を採った。三角点選点の時は西側から登られたらしい。北側のルートも考えたが、地形図を見ると下の方の傾斜のきつい部分に何かありそうな気がしたので、南東から登ることにした。北から西側を巡る総富地川本流(ペンケ総富地川)は260m付近で送水トンネル工事が行われていてそこまでは舗装されているが、そこから先の林道はやや荒れている。砂金沢の方はピンネシリの登山口アプローチと山頂のレーダードーム保守道なので、未舗装だがそこそこ整備されている。

 ピンネシリ登山口駐車場から300mほど下流に戻り「ピンネ橋」からホロカソッチ沢に入渓する。ホロカソッチ沢はピンネ橋から既に砂防ダムが見えている。左岸に踏み跡があり、砂防ダムの直下で渡渉して右岸からダムを巻く。左岸はツル植物が絡まって歩きにくかった。


カツラの
巨木

タモギタケが
あった

桂巨木の黄葉
(Fuさん御提供)

 ホロカソッチ沢は水量が多い直線的な流れである。ところどころに淵がある。魚影も見られる。同行者の一人が釣り糸を垂らしてみたところ、釣れたのはニジマス(レインボートラウト)であった。

 砂防ダム脇の踏み跡は釣り人によるものか。270m二股は3:1ほどで左が大きい。小さい右股に入る。ここから400m二股までは水量が一気に減り、蛇行が激しく地図で予想したより時間が掛かった。秋ならば草本の倒れた陸地をショートカットできるが、夏場は草の繁茂が激しく水線に沿うしかない。時折、ヤブが沢の上にかぶる箇所もある。黒光りした石炭のような、薄い節理のある露頭が時折見られるが、石炭ではなく粘板岩である。カツラの大木が多く見られる。わりと良好に自然が残っている雰囲気の森だ。ツリフネソウ、キツリフネ、ジャコウソウが多い。蛇行が多い上に水のない谷地形などもあり地図読みはやや難しい。河原の岩は滑りやすい黒い粘板岩でない所も多く、比較的歩きやすい、白っぽいゴマ塩模様の斑レイ岩も見られる。岩脈として入ってきたものらしい。これらの沢床の岩の上には泥が沈殿していることがある。泥の多い山のようだ。粘板岩が十分岩に成りきっていないということなのだろうか。

 400m二股から先は岩が苔生すようになり水源が近いことを感じさせるが中々水が減らない。550m二股付近から上で、一旦かなり水量が少なくなるが、その後かなり復活し、標高650m付近までガレガレの中に水流が見られる。次第に傾斜が急になり、下山時は落石に注意する必要がある。ツノハシバミの木が多く見られた。水が切れてから標高700mの稜線までは、草付きも混じる薄いヤブで登りやすい。

 滝や函は殆どないと言っても良さそうである。430m付近に小さなゴルジュ、500m付近に2段3mの滝(下段は直登可、上段は左から巻く)がある。

 稜線に上がって、しばらくはヤブの薄い樹林下だが、山頂に近づいていくと、一旦猛烈な背丈を越えるネマガリタケのヤブ漕ぎとなる。山頂近くでややヤブの丈が下がり、山頂までには腰ほどの高さとなり、後方に新十津川をはじめとする石狩平野と、ピンネシリをはじめとする樺戸連山が見えるようになる。稜線に上がってからの平らな部分は広く長く、ヤブで全く視界が利かないので特に帰還時は慎重に磁石を切る必要がある。

 山頂は腰ほどのヤブの中だ。東と南は笹薮なので展望が自在である。ピンネシリが大きい。快晴なら大雪山までも見えそうだ。北方は樹林に遮られてあまり展望がない。西側には樹林にちょうど、視線の高さに樹林の切れ間があり、群別岳をはじめとする暑寒別連山、すぐ東の壮志岳と幌加徳富の田んぼの広がる盆地が見渡せた。


稜線間近の源頭

三角点

山頂の様子

ピンネシリと
待根山(マツネシリ)

石狩平野
滝川の街

奥徳富岳(左)と群別岳(右)
(チロロさん御提供)
ペトゥトゥルンペ山はオッパイ山であった。
ピンネシリより望むペトゥトゥルンペ。
(キンチャヤマイグチさん御提供)

★山名考


新十津川町の
石狩川の堤防からの
ペトゥトゥルンペ
  1. 松浦武四郎/竹四郎廻浦日記・・・ソラチイトコヘトスルンヘ
  2. 松浦武四郎/丁巳日誌・・・ベトワルンベ
  3. 北海道庁/北海道実測切図・・・ペト゜ウト゜ルンペ山
  4. 永田方正/北海道蝦夷語地名解・・・ペト゜ト゜ルンベ 川間山 ペンプチ川とパンケソプチ川の間にある山
  5. 陸地測量部/北海道仮製五万図・・・ペト゜ウト゜ルンペ山
  6. 平(2006)・・・「以上のことだけでは資料不足で、ヘトスルンヘとベトワルンベがなにを指しているのか決定できず、今後の検討の参考のために記載した。」

 この山域のアイヌ語の山名については平(2006)に詳しい。その中で廻浦日記と丁巳日誌での石狩平野上の二地点から描かれた絵図のヘトスルンヘが方角で三角点「辺止釣運瓶」の山と一致し、北海道実測切図上の位置ともほぼ一致しているとされる。「ソラチイトコ」の「ラ」は筆書き縦書きの「ーフ」の誤解読とし「ソーフチイトコ」と松浦武四郎は書いたとしている。丁巳日誌でベトワルンベとは別に記入されたソフチイトコと似るショフチイトコの「ショ」はアイヌ語では「ソ」と発音上区別されない。「ベトワルンベ」の「ワ」も「ゝ」の誤解読であろうとされ、「べトゝルンベ」でベトトルンベと読む。ベトワルンベはペトゥトゥルンベそのもので、これとはずれた位置(南側)に描かれたショフチイトコはパンケ総富地川の水源であり、ペトゥトゥルンベを回りこんでペンケ総富地川も同じ位置に水源が来るということと思われる。

 しかし、北海道庁と関連が深く北海道実測切図にも関与したといわれる永田方正のアイヌ語解を採用せず、「ヘトスルンヘ」が何を指しているかはまだ不明であるとし、今後の研究課題として終わっている。


松浦武四郎/竹四郎廻浦日記の絵図(アハタンナイ眺望図)2枚をつなげたもの
眺望地点「アハタンナイ」は平(2006)によって滝川市有明町付近と推定されている.
(松浦武四郎,高倉新一郎,pp98-99,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.)

北海道実測切図(道庁20万図)「増毛」図幅より
カムイシリは現在の神居尻山だが尾根のつながりが誤っている.

 これらの平(2006)に示された資料と、この一帯の新十津川町内の三角点点の記で十分、「ヘトスルンヘ」と三角点「辺止釣運瓶」は一致していると考えて良いように思う。この周囲の点の記は大正3年とやや新しいものの他に道庁実測切図にもないアイヌ語山名らしき点名が見られ、筆跡から判断するに同一人物の記述でアイヌコタンなどを記載している。点の記の作成に生活者としてのアイヌが関わっていたことを感じさせる。

 ヘトスルンヘ等は永田方正の pet utur un pe[川・の間・にある・もの]ということなのではないか。アイヌ語では単語間のリエゾンでカタカナで表記するとしたら「ペトゥトゥルンペ」となり(p と b は区別されない)、当頁ではこの表記をタイトルにした。総富地川(北海道実測切図ではペンケソプチ川)と、その支流の砂金沢(北海道実測切図ではパンケソプチ川)に挟まれた所にこの山は位置している。上下のソプチ川の間についているものということと思われる。

 当頁では「ペトゥトゥルンペ」の表記を採用したが、「トゥ」や「ト゜」の音の表記は煩雑で、元々文字の使われなかったアイヌ語であり、近世・近代の歴史的な表記も無視し難く、表記に悩むものではある。願わくば「ト゜」或いは「ツ゜」がテキストの並びを崩さない一文字分の中に収められるようなフォントや変換辞書が広まって欲しく思う。

 ソーフチイトコは、総富地川のイトコ etoko[その水源]という意味であろうが、ソーフチはまだ何を意味するか解明されていないようだ。アイヌ語でソーは so[滝]と訳されることが多いが、総富地川には全く滝がないことを山田(1971)が書いている。総富地川を石狩平野への扇端から川に沿って上流へ砂金沢はピンネシリ登山口まで、総富地川本流は標高400mまで林道を走って見てみたが、今では人工の砂防ダムの落差はあるものの滝はなかった。現在は総富地川は「そっちがわ」と呼ばれており、地形図上の振り仮名もそうなっている。ペトゥトゥルンベの平野側に聳える小山は「そっち岳」と呼ばれ、平仮名のままスキー場の名ともなっている。しかし、江戸時代の記録などを見ると本来は宛て字の普通の読みに近く、ソープチであったのではなかったかと思う。

 ペンケ・パンケは本流に対して二つの似たような特徴を持つ支流につけられることが多いようだが、総富地川の場合は石狩平野から立ち上がる山地に対して下手の総富地川と上手の総富地川ということだろうか。

 ホロカソッチ沢の名は入渓点の林道の橋(昭和40年代のもの)の銘版によったが、この沢が本当にホロカソッチなのかどうかはよく分からない。ホhorka は流れの方角が本流とは反対気味になる支流に付けられる例が多い。しかし、東向きに流れるホロカソッチ沢は流れが反対になっているとは北東向きに流れるパンケソプチ川(砂金沢)に対しても、ペンケソプチ川と合流した東向きに流れる総富地川下流に対しても言えないように思う。また、下流から順繰りに地名を書き連ねている事の多い地図のない永田地名解では「ホロカソプチ、パンケソプチ、ペンケソプチ」の順で記載されており、ホロカソチがペンケソプチとパンケソプチの合流点より下流で合流していたとも思わせる。ホロカソッチという橋の銘版が、時代が新しいだけに怪しみをもって眺める次第である。

参考文献
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.
松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
北海道庁地理課,北海道実測切図「増毛」図幅,北海道庁,1893.
陸地測量部,北海道仮製五万分一図「神居尻」図幅,陸地測量部,1898.
永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
平隆一,松浦武四郎描画記録における空知のアイヌ語山名,pp7-24,6,アイヌ語地名研究,アイヌ語地名研究会・北海道出版企画センター(発売),2006.
山田秀三,北海道の川の名,電通,1971.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.



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(2007年10月29日上梓 11月11日山名考追加 2017年11月6日URL変更)