猿留山道位置の地図
猿留山道の地図1
猿留山道 その2
さるるさんどう さるる〜びたたぬんけ

 猿留山道は幌泉から猿留(目黒)までかと思っていたが、猿留からビタタヌンケも同じ時に拓かれたようだ。しかし猿留以南より早い時期に廃道化していたらしい。現在も拡幅されて車道として供用されたり、フットパスとして再生されつつあったりする猿留以南とは異なり、一部は全く放置されているようだが歩いてみた。完全にトレース出来たわけではないけれど、確かに江戸時代の路盤は残っていた。また、猿留以南やルベシベツ山道と一繋がりで日高と十勝を結ぶ「猿留山道」でもあったらしい。


猿留山道の地図

 えりも町の資料館で猿留山道のパネルで地図を目に焼き付けて、更に目黒のお爺さんが「墓地の奥からオニトップ川に行けるよ」と教えていただいたので、まずは墓地へ。

 目黒の墓地の入口には石仏が数体ある。これは目黒(猿留)の集落に猿留山道と言う街道を通して災厄が猿留集落に入り込まないように安置されたものではないかと考えた。だとすれば、猿留山道の分岐は石仏の奥にあるのではないかと考えた。

 えりも町資料館のパネルでは墓地の手前の苗圃から猿留山道の猿留より北が尾根を越える為に上がっているように書かれていたので苗圃の辺りをうろついてみたが路盤を見つけられなかった。道から外れると雪で隠れているかもしれない苗を踏んでしまうかもしれないし、網で囲われた区画もあったので早々に退散。

 墓地の裏手に上水場があり、その道を上がってみた。道は更に続いているが尾根の中腹をトラバースするように続いており尾根を越えてくれる感じがしない。仕方ないので最低鞍部を目指して雪の積もる森の中を適当に登ってみた。

 積雪が少ないので、時々雪に隠れた細い倒木でスリップしたりしながら何とか尾根上に上がると、尾根の北東側に立派な道の跡があった。「もう少し先(東)へ行けば林道跡も尾根を越えていたのか」と思うも、よく見ると林道と言うよりは作業道の跡で昔の道と言う感じがしない。尾根を西にも進んでみるとこちらに猿留以南の猿留山道と同じ規格に見える古い路盤があった。笹も刈られていないし目印テープのようなものもつけられていない。

 道は峠から西に向かって下りているので反対側を見ると、稜線すぐから若いトドマツ(?)の植林になっている。暗い植林の中を覗きこむもこちらには道の跡が見つけられなかった。見つかればこのくらいの標高差なら戻って登り返してもすぐと思ったが見つけられなかった。寒いので諦めて下りることにした。

 道は低い笹に覆われて、トラバースしながら西へ斜面を緩やかに下っているが、大きな倒木があったり小さな山崩れで路盤が完全に失われていたりしてちょっと歩きにくい。オニトップ川二股の手前にある沢は渡らずに沢の手前で数回ジグを切って少し標高を下げ、この沢の中に下りていた。沢へ下りる最後が少しヤブっぽくて危うい。

 この沢の中は、下りた地点ではギザギザした岩盤だがすぐにガラガラの岩屑の上を歩くことになる。雪が積もっているのでどういう岩かよく分からないし、寒かったから雪をのけてみようとも思わなかった。最後はフッキソウや倒木の多い荒れた感じで林道に合流。この林道は目の前で左岸の地形図記載の林道から分岐してオニトップ川を渡渉してオニトップ川左股へ続いていた。


峠の北側に
路盤を発見

段々
細くなる

ちょっと
危なくなる

洗越で
オニトップ川渡渉

 オニトップ川は水量少なく、倒木の枝を杖にして飛び石で渡る。本日のメインはこれでオシマイ。猿留山道の地図に記載されていない部分を短い区間だが自分で見つけられて満足。後は探すのは止めて林道歩きのトレッキングだ。新雪が積もったばかり、しかも個人的には今季初の雪で青空も見えてきて気持ちよく歩く。

 この辺りの林道は基本的に橋を掛けない主義らしくて小沢は全て洗い越しで路盤の上を流れて横断している。次の二股を右に入ると地形図上では点線区間になるが、林道としては殆ど同じ雰囲気が続く。車も入れる幅だ。標高100mが近くなると砂防ダムが右に沢山見える。その先で林道は右折するように続いていて、車で入らないようにとの看板があった。

 ここからは登りが少し急になり、砂防ダム群の横を登り、山の斜面を登っていく。新雪に当たる日差しが明るくていい雰囲気。山の斜面に古い路盤などが有るような無いような・・・ハッキリしない。

 峠では奥(南)の山も見えるはずだが奥の方はガスがかかっていた。峠の北側は複雑な地形でオピタルシペの浅い谷地形の中を下り、途中で標高差のほとんどない尾根を乗り越してビタタヌンケの谷へ入る。オピタルシペの上流や下流に向かう分岐がある。並木状の植林の連なる直線に敷かれた道はちょっと山深い谷の中と言う雰囲気ではない。

 二回目の峠から先は緩やかに斜面を下るが林道らしい雰囲気だ。水の流れが少し下を流れているのが見下ろせる箇所が何箇所かある。流れは細く水も少ないので昔の道は水際に沿って歩いていたのではないかなと思ったりする。一方で様似山道も猿留山道猿留以南も勾配を一定にすることに工夫されて作られた道だったので、ここも古い道は今の林道に覆われているのかもしれないとも考えたりした。

 海の音が響くようになりピタタヌンケ川を渡渉してビタタヌンケに着いた。


林道 最初の鞍部
青空

こんな部分は元は
沢沿いではなかったかと思う

ビタタヌンケ
(境浜)

砂防ダムを
越えて斜面を
登る林道

オピタルシペの谷の
中は広くて平坦
猿留山道の姿は林道

 1857(安政4)年の箱館奉行・堀利煕の蝦夷地巡検一行は波が高かったので猿留山道のこの区間(ヒタタヌンケ〜サルル)も歩き、随行した玉蟲左太夫は「平日通行少ナキガユエカ路モ至リテ狭ク且沢中水ノ流ルル中ヲ通行。尤モ折々険坂アリテ馬行叶ワザル処往々ナリ」と記している。作られて60年近く経ち、使う人も少なく既に荒れていたことが読み取れる。しかし、広尾から幌泉の猿留山道全体については西蝦夷地の諸山道に比べれば「開キ方至極宜シキ様見ヘタリ」と好評価であった。


★地名考

 猿留川とピタタヌンケ川の間の現在の川の名がよく分からなかったが松浦武四郎の東蝦夷日誌に「ヲヒタルシベ(岩原)大なる岩山の間より水が下る儀」とあることなどから、とりあえずオピタルシペとしておいた。ビタタヌンケと猿留の間にあって二つの峠でこれらをつなぐ川である。大峠・小峠はこうした地名の記録を見たわけではないが、本州などでこういう地形があった場合、このように名付けられる例を見るので便宜的に振っておいた。

  • ヲヒシリヘ(三航蝦夷日誌・吉田常吉解読)
  • ヲヒタシヘ(校訂蝦夷日誌・秋葉實解読)
  • ヲヒタルシヘ(竹四郎廻浦日記・高倉新一郎解読)
  • ヲヒタルシヘ(竹四郎日誌・松浦孫太解読)
  • ヲキタフンヘ(午手控・秋葉實解読)
  • ヲヒタルシベ(東蝦夷日誌・吉田常吉解読)
  • オピタピシペ(北海道仮製五万分一図)
  • オピタルシペ(えりも町史)

 明治時代の陸地測量部による地図(仮製五万図(明治29年))ではオピタピシペで川の名となっている。えりも町史では東蝦夷日誌に従った解釈でこの川のこととしている。松浦武四郎はしかし、公的旅行の記録である竹四郎廻浦日記・竹四郎日誌ではオピタルシベの文字の下に「岩サキ」とだけ付け、解釈をしていない。東蝦夷日誌は興を添えるために脚色が入っているといわれる。オピタルシペは川の名ではなく、この川とビタタヌンケの間の目立つ岬の名なのかもしれない気がした。廻浦日記の翌々年の戊午の日誌では廻浦日記の記録と重複するので省かれているが、取材ノート(手控)ではヲキタフンヘをビタタヌンケと猿留の間に聞き取り、東蝦夷日誌と同じ説明の他に「其間山ともなし川ともなしに落つるによって号(なづけ)しとかや」と聞き取っている。ヲキタフンヘをアイヌ語で解釈するとそのような意味になるのかよく分からないが、この謎掛けの様な説明はオピタルシペが中流域で広く平坦で、上流と下流に2つの峠を持つ、この川の変わった特徴を匂わせた表現のように思われる。やはり川の名なのではないか。松浦武四郎は猿留山道のこの区間は歩いておらず、海岸線を辿っているのでオピタルシペ(川)の上流の様子を見ていない。

 1855(安政2)年の作とされる福島屋文書の幌泉御場所山道海岸山川地名里数並絵図の1934(昭和9)年の写本では、岬ではなく川の河口に「オキタルシヘツ」と振られている。

 文化6(1809)年の年記のある東蝦夷地各場所様子大概書では「オヒタルシベ」である。

 えりも町史に従って、川の名としてのオピタルシペ(ッ) o- pitar us pe/pet[その尻(に)・小石原・ついている・もの/川]と考えるが、10年以上前に自転車で黄金道路を走ったものの、河口の様子を覚えていないのが残念である。

参考文献
1)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
2)松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
3)渡辺茂,えりも町史,えりも町,1971.
4)えりも町郷土資料館,猿留山道(えりも町ふるさと再発見シリーズ3),猿留山道復元ボランティア実行委員会,2003.
5)北海道道路史調査会,北海道道路史 路線史編,北海道道路史調査会,1990.
6)松浦武四郎,吉田常吉,新版 蝦夷日誌 上 東蝦夷日誌,時事通信社,1984.
7)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
8)松浦武四郎,松浦孫太,佐藤貞夫,竹四郎日誌 按西(北海岸)按東扈従,松浦武四郎記念館,2001.
9)玉蟲左太夫,稲葉一郎,入北記,北海道出版企画センター,1992.
10)東蝦夷地各場所様子大概書,新北海道史 第7巻 史料1,北海道,北海道,1969.



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(2009年12月15日上梓 2017年6月14日URL変更)