楽古岳の位置の地図
楽古岳
楽古岳
札楽古から

楽古岳(1471.5m)
コイボクシュメナシュンベツ沢

 楽古岳は日高山脈で一般的に登られる最も南の山。コイボクシュメナシュンベツ沢は楽古山荘をベースに一日で登って、下山は登山道を使って楽古山荘に戻ってこれる。面白く、日高の要素を十分に含んでいる。難しい所はないので遡行図は不要と思うが、源頭に続くナメ滝に高度がある。


 楽古山荘は浦河山岳会が管理していて無料、事前予約なしで利用できる。駐車場有。メルヘンチックな外観でちょっとしたペンションのようだ。浦河から国道236号線(天馬街道)上杵臼の楽古岳登山口の標識で右折して林道を9q走った先にある。公共交通機関は、札幌と広尾を結ぶ高速バス「広尾サンタ号」上杵臼下車。平日のみならJR日高線日高幌別駅発の日交バス上杵臼木村宅前行き終点下車。レンタカーなら静内町で。


コイボクシュメナシュンベツ沢地図

 楽古山荘から十勝岳直登沢出合までは普通の林道歩き、作業道歩き、河原歩き。全部で30分。十勝岳直登沢出合からおもちゃの様に小さい釜と滑滝が二、三段。このあと、両岸が切り立って日高らしい雰囲気となる。更に河原を5分歩くと第二のおもちゃの様な函と滝がある。適当に巻ける。ひとつまともな滝もある。

 合わせる支沢が滝になって落ちていることが多く、岩崩れの跡もあったりしてやさしい割りには日高らしい雰囲気だ。

 伏流になりしばらく行くと前方に水量の少ない滝が見え、本流は滝の下の手前の尾根に隠れてその滝が本流かと勘違いし易く本当に本流なのか不安になる(770m付近)。でも直進。ここの伏流帯には沢の谷底だがナキウサギの声が響いている。

 クランク状になっており、隠れていた本流が見え出す右への曲がり角から先はずっと滑滝。一番始めのがかなり高いが直登簡単。あとはひたすら水量の多い方を選んで滑滝を直登して高度をぐんぐん稼ぐ。かなり快適。

 滝に入ると北向きの沢筋なので名残の、赤みの濃いチシマゲンゲがまだそこここに咲いていた。稜線でないので草丈が高くゴージャスな感じだ。他にはトリカブト、フキユキノシタ、オオイワツメクサ、ミヤマセンキュウ?山頂にはミヤマキンバイ。沢の下の方ではサラシナショウマ、ホザキナナカマド、など。

 1200mで水は切れる。最後のもう稜線が見えるところに最後の二股。どちらでも国境稜線まではハイマツに触ることなく、土にも触ることもなく(岩ころなので)上がれるが、右が正解だったようだ。右なら2mのハイマツ漕ぎで登山道にぶつかるというが左に入ってしまい、登山道まで10分ほどハイマツ漕ぎする事になってしまった。

 あとは3分ほどで山頂に着く。


 あまり言われないが楽古岳はかなりの花の山。種類は少ないけれど量が多い。日高側で5月は沢沿いのエゾエンゴサク、尾根に取り付いて登山道を埋めるカタクリとエゾオオサクラソウ。6月は沢沿いのヒダカハナシノブと尾根の下から山頂直下まで咲くオオバナノエンレイソウが素晴らしい。

 2009年2月25日付朝日新聞夕刊(北海道版)の植物写真家・梅沢俊氏が書かれた記事「山花ものがたり」でチシマゲンゲが取り上げられ、自分がこの沢で見たチシマゲンゲとよく似た植物の写真と文章が掲載されていた。チシマゲンゲに似たその姿が稜線で生育するものと異なるのが、生育環境によるのか、そもそも分類が異なるのか、結論はまだ付けられないとのことだった(但し日高山脈南部の渓流沿いにおいての写真ということでコイボクシュメナシュンベツ沢での写真とは明言されていない)。


★山名考

・らっこだけ

 楽古川の源頭の岳の意であろう。

 上原熊次郎は文政7(1824)年の蝦夷地名考并里程記でラツコ(楽古川)を「夷語。昔時此川の辺江猟虎流れ寄りしより字になすと云ふ。」としている(ラッコ(猟虎)はアイヌ語でも rakko)。

 松浦武四郎は安政3(1856)年の日誌にラツコヘツ(楽古川)の名について、「此地名昔し野火の有て此辺の山々を皆焼尽せしが此処にて留りしと云事なる由。」としている。

 永田方正(1891)は「Rak ko pet ラコペッ 火消川 北地ヨリ山火燃エ来リ此川ニ至リテ消滅セリ故ニ名クト『アイヌ』云フ」とする。

 安田巌城(1914)は「原称は『ラック・ベツ』なり。しかも今は多く誤りて『ラッコ』ととなえ、古昔猟虎(ラッコ)海上より流れよりしより名づくと伝うれども、じつは然らず、山火この川に至りて止みたるより、『ラック・ベツ』と唱うるを正なりとす。」とする。

 山田秀三(1984)は山火事鎮火説を「ここにあった事件に結びつけた後人の解であろう。」として、アイヌの長に聞いたと言う、より古い上原熊次郎の記した猟虎漂着説を「まずはその説を採って置きたい」と支持したいようである。

 しかし「楽古(らっこ)」という音の、猟虎(ラッコ)漂着説は付会で間違いないと思う。ラッコが漂着したとしても、それも一時の事件である。多摩川にアザラシのタマちゃんが現れたから多摩川を「アザラシ」と呼ぼうなどと言い出す人はいない。「アザラシ川」でもいないだろう。

 山火事停止説は、山火事がこの川で消えるというのがどうしてラッコという音になるのか。複雑な話が語源であるとされるわりにはラッコという音が短いと思う。

 アイヌ語で ape e- us -i[火・そこで・消える・もの(所/川)]と言えば、山火事が楽古川で鎮火したという話と繋がりそうである。”アペウシ”のような音の別名が楽古川にあったか、楽古川の「ラッコ」を説明するのにアペウシのような言葉が使われたことがあったのではないかと考えてみる。


楽古川からの山越えルート推定地図

 apa eus -i[入口・その頭に付いている・もの(川)]と考えると、母音の重出が約まってアペウシという音になることがありそうである(eus の u の前の子音は表記されない子音なので e と u の母音が連続しているわけではない)。楽古川源流のA沢は溯行が容易である。

 明治時代の五万分一地形図のニオベツ川の源流域にケンネピナイという川(谷)の名がある。当時の測量の限界で十勝岳を指すポロシリと楽古川本流源頭と上二股の沢源頭の接し方が誤っているが、上二股の沢がコイカクウシュニオペッで、本流が十勝岳に十勝岳に突き上げ、十勝岳山頂から一段西に下がった支稜上から落ちるコイカクウシュニオペッの最上流の左岸支流がケンネピナイである。

 ケンネピナイのピナイはアイヌ語の pinay[小石川]で伏流の谷筋であることを言っていると思われるが、ケンネの部分はそのままではアイヌ語が解釈出来ない。だが、剣淵川や見市川、計根別などから、ken で始まるアイヌ語地名は山手からの下降路になっていることが多い気がしている。ニオベツ川下手で日高幌別川平野部最奥の杵臼(きねうす)も、ken の某の ous[の根元]で無いかと思う。或いは rikna ous[上の方・の根元]かrikna は位置名詞で先行詞無しでは長形となると思ったのだが、アイヌ語辞典に長形を見ないので短形でイタリックとした。mak のように先行詞無しでも短形で用いられる位置名詞はあるようである)。ケンネピナイは〔rikun ru〕pinay[高い所の・道・小石の谷]でないかと考える。

 楽古川A沢から十勝岳に上がり、西の尾根筋を少々下り、水流とヤブが無く小石ばかりで下りやすいケンネピナイからコイカクウシュニオペッに下って日高幌別川筋に向かう夏の山越えのルートがあったと考える。

 十勝岳は明治時代の地形図に「ポロシリ」と書かれ、アイヌ語の poro sir[大きい・山]とされるが、広尾町内から見ても浦河町内から見ても南隣の楽古岳の方が大きい。山越えの入口の所にある山ということの par o sir[口・ある・山]の転がポロシリでないかと考えてみる。

 日高山脈主稜線越えのルートとなる川であると言う事の rik -ke[高い所・の所(川)]か、ru orke[道・の所(川)]の転訛がラッコ/ラックでないかという気がする。楽古川だけでなく、野塚川やトヨニ川も比較的容易な沢登りで日高山脈主稜線を越えることが出来るが、十勝平野の南端で川筋の南側が下流域からすぐ山地になっていて地形的に見分けやすい楽古川を日高山脈主稜線越えのルートとして注目したアイヌの集団がいたのではないかと考える。山火事が北方から来たとの永田方正の聞き取りは、北方の十勝平野から進んできて、楽古川より南下はせず西へ向かうと言うことではなかったか。

 楽古川本流に対して遜色ない水量があるように見えた支流の札楽古川の「札」が、アイヌ語の sat[乾いている]ではなく sak[夏]のような気がして、ru orke も捨てきれない気がするが、「夏の高い所の所」も、あっても悪くない気もする。楽古川下流域から幌別川流域への距離だけなら札楽古川沿いの方が短い。ペンケ札楽古川からなら幌満川へ抜けられるが、札楽古川本流から日高幌別川流域へ短いヤブ漕ぎと安全な下降が出来るルートが分からない。楽古川本流が冬のルートならA沢とB沢の間の尾根に取り付いて十勝岳に登るか。

・ピンネシリ

 ピンネシリとも、松浦武四郎の安政5(1858)年の記録にある。pinne sir[男の・山]で matne sir[女の・山]は十勝岳である。楽古川筋の説明の詰めで登場するので十勝側からの呼称のようである。


北海道仮製五万分一図
コイカシュメナシュウンペッ上流の
アイヌ語地名

・オムシャヌプリ

 明治26年の北海道実測切図には楽古岳が「Omushanupuri オムシヤヌプリ」とある。オムシャヌプリの名は現在(2017年)の地形図では楽古岳の北西方約6kmの双子山に別名としてあるが、北海道実測切図ではオムシヤヌプリ(現在の楽古岳)の位置から南西に下る、コイカクシュメナシュウンペッの最奥の沢に「オムシヤランペッ」とある。オムシャランペッの記載が正しいのなら、オムシャヌプリはオムシャランペッの源頭の nupuri[山]ということになりそうで、現在の双子山の別名では無さそうである。右の図に北海道実測切図の測量結果を利用しているという北海道仮製五万分一図の、コイカクシュメナシュンベツ上流の川筋の地名を入れてみた。コイカクシュメナシュウンペッの流路は下からオムシャランペッ落ち口の辺りまで現行の地形図とほぼ同じだが、支流の流路は測量されていなかったようで、入ってすぐに分流のあるメナシュクシュナイとオムシヤランペッの下流部に分流が描かれず、オムシヤランペッはオムシヤヌプリにまっすぐ突き上げており、オムシヤヌプリの位置は楽古岳と違うようだが一帯で最高の1419.7mというオムシヤヌプリの標高を見るにオムシヤヌプリが今の楽古岳を指していることは動かしがたい。支流として小さい谷筋のシュムクシュペッと、ペッとしての実態があったのか怪しい小さな谷筋のエヤオペッには疑問がある。

 シュムクシュペッの名はメナシュクシュナイを分けた上のコイカクシュメナシュウンペッの本流筋の名で、仮製五万図のシュムクシュペッの位置の沢筋がエヤオペッでないかと考えてみる。エヤオペッがアイヌ語で何を意味していたのか。シュムクシュペッの水流は仮製五万図に見るほど長くはなく、広がる緩斜面の谷筋の中で本流筋に平行する e- awe o pet[その頭・内・にある・川]でないかと考えると、今の地形図でのシュムクシュペッのあり方に合致するのでないかと思う。プト゜ピリカウンナイは落ち口が道の尾根取り付きという putu par -ke un nay[その出口・入口・の所・にある・河谷]と考える。

 双子山がオムシャヌプリとされるようになったのは地形図にオムシャヌプリの名の代わりに楽古岳が記されるようになって、オムシャヌプリの名を残そうと言うことで坂本直行氏が双子山を適当と推し、国土地理院からこの辺りの山名について相談されていた、山岳部と地質学で日高山脈に詳しかった橋本誠二氏が図に記して国土地理院に送り、それが採用されることで成ったらしいという。双子山がオムシャヌプリに適当とされたのは、オムシヤヌプリ(楽古岳)とポロシリ(十勝岳)の向き合う様が昔の儀礼のオムシャのようだということで名づけられたのではないかとされて、無名であった双耳峰(双子山)の向かい合う様もオムシャに例えられそうだということではなかったかと考えてみるが、オムシヤヌプリの直下に関連が疑われるオムシャランペッと言う名の沢名が旧図にあったのだから、オムシャヌプリの名を移動してしまったのは軽挙でなかったかという気がする。「オムシャヌプリ」は「楽古岳」と併記か、悪くても「楽古岳(オムシャヌプリ)」とするべきではなかったかという気がする。

 以前、掲示板を通じて、tu に同義の situ があるように、so に同義の moso があるのではないかと教示された。

 楽古岳から南西面に落ちる沢の標高600〜700mの辺りに、谷幅が少し広まって傾斜も緩くなっている所がある。ここを moso と言った o- moso or un pet[その尻・平らになっているところ・の所・にある・川]が楽古岳に突き上げるメナシュンベツ川右股の最奥の支流の名では無かったかと考えてみた。ほぼ同義の言い換えで、o- moso o pet[その尻・平らになっているところ・にある・川]とも言われ、その源頭の山と言うことで o- moso o nupuri[その尻・平らになっているところ・にある(川の源頭の)・山]と言ったのが訛ったのがオムシャヌプリであったのではないかと考えた。

 だが、標高600〜700mの辺りは緩傾斜だが斜面である。平らに近いとは言っても平らではない。国道5号線の蓴菜沼の南の旧道の峠は無沢峠で、その南側の谷川はムサワ川である。積丹の美国川の支流の無沢は美国川の大支流である我呂ノ沢に平行する小川で、残雪期初期の谷筋が雪で埋まっている時期なら谷筋で、雪が開いているなら狭いゴルジュ状が続いて歩きにくいので落ち口から我路ノ沢との間の長尾根を伝って我呂ノ沢の滝場を回避して我路ノ沢の上流へ向かうことができる。標津の武佐川は斜里への冬道になっているようなことが松浦武四郎の安政5年の聞き書きにある。

 仮製五万図のオムシヤランペッの落ち口から尾根に取り付いて楽古岳の南の方に上がって十勝側に山越えするルートが今の登山道の付いた尾根とは別にあって(アイヌの人のグループによって使い分けられていて)、仮製五万図の位置のオムシヤランペッではなく楽古岳山頂に突き上げる沢筋が o- ru-ca or un pet[その尻・道の口・の所・にある・川]だったのではないかと考えてみる。ほぼ同義の言い換えで、o- ru-ca o pet[その尻・道の口・にある・川]とも言われ、その源頭の山と言うことで o- ru-ca o nupuri[その尻・道の口・にある(川の源頭の)・山]と言ったのが訛ったのがオムシャヌプリであったと考える。

 オムシャランペッは o- ru-ca o- ran pet[その尻・道の口・そこに・下る・川]とも考えられそうだが、知床のラサウヌプリにオムシャランと音の似ている別名と思われる「エキシヤランノホリ」という記録があり、ラサウヌプリに突き上げる沢の上流側の一部が浜側に寄っているので e- pis or un nupuri[その頭・浜・の所・にある(川の源頭の)・山]と推定したが、e- pis o- ran[その頭・浜・そこに・下る]と考えると、上っていく水源が浜に下るという矛盾したことになりそうである。また、オムシャランペッ或いはほぼ同義の名の川の水源の山としてオムシャヌプリという時にオムシャで切れない。ということで、オムシャランも ran では考えないことにする。

参考文献
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上原熊次郎,蝦夷地名考并里程記,アイヌ語地名資料集成,佐々木利和,山田秀三,草風館,1988.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
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井上寿,十勝アイヌ語地名解(十勝地名解補註),十勝地方史研究所,1985.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
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陸地測量部,北海道仮製五万分一図「廣尾岳」図幅,陸地測量部,1896.
北海道庁地理課,北海道実測切図「襟裳」図幅,北海道庁,1893.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
村上啓司,日高の山名について,写真集 日高山脈,山口透・鮫島惇一郎・村本輝夫,北海道撮影社,1979.
北海道庁地理課,北海道実測切図「函館」図幅,北海道庁,1890.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1985.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 中,北海道出版企画センター,1985.



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(2002年1月23日上梓 2003年5月19日修正 2008年3月4日標高修正 2009年2月25日交通機関・チシマゲンゲ関連補記 2017年10月12日山名考追加 2019年11月3日山名考改訂 2023年7月8日改訂)