カムイ岳(1756.1m)
カタルップ沢
カムイ岳とは北日高は戸蔦別岳とエサオマンの間、本来なら自分の登山の性に合わない、たまたま名前のついているコブ。然れども日高山脈主脈上にありながら、名前がついているのに夏の日高山脈全山縦走からオミットされる哀れな山。南日高の神威岳と区別する為、地形図では漢字書きだがカタカナ書きされる事が多い。幌尻岳の最高の展望台という噂を聞いて、カタルップ沢(エサオマントッタベツ沢の一本上流の沢)から上がってみた。
出合の様子 |
F1(1000m) |
林道はカタルップ沢出合まできれいで走りやすい。カタルップ沢出合の橋に赤テープで通せんぼしてあった。カタルップ出合の橋(カタルップ橋)から入渓。出合からナメ滝で、ひとつながりではないものの標高850mあたりまで延々とナメ床と低いナメ滝が連なっている。台風の影響が残っていてやや増水気味で、すごい迫力だった。標高1000m付近に第一の大きな滝(図のF1)。滝の両脇に小さなホールドが沢山並んでおり上手な人なら登りも下りも直登できそう。ワタシは登りは左岸直登したが下りは左岸の泥地を下った。またF1より下流で右から合わさる支流はいずれも滝になっている。
1050mの直登沢出合は狭くルンゼ状に水流が走って合流して小さな滝になっている。ここから狭くて何となく嫌な滝が連続し、巻いたり登ったりして越えていく。1150mには、下の方で二列の岩溝の山手側だけに水流が集まり、上の方では急なナメ滝となる、剥げた草つきのかなり嫌なトラバースによる巻きが必要な大滝(図のF2)がある。ここは右岸を巻く。
1250mあたりではルンゼ状の連瀑(図のF3)があり、下から2番目くらいにチョックストンがあって、両脇とも急な草付きで巻ききれないので、少し下流に戻り、左の小沢の間の尾根の根曲がりブッシュの中を40分かけて大巻きした。下りでも20分かかった。複数人で行く場合、ショルダーで越えられるかも知れない。
1350mの二股は両方滝(図のF4)だ。右の支流はルンゼ状、本流は門状の岩影から落ちる風情のある滝で、大きく高く見えるがわりと気持ちよく簡単に登れる。後は開けた感じで小滝とガレの繰り返し。小滝はどれもホールドはすごく多いものの傾斜がきつくて、「小滝群」でくくってしまわれる中では面白い方だと思う。やはり台風の影響か、1700mあたりまで水流があって、最後はやや傾斜がゆるくなり、詰めはヤブ漕ぎなしで稜線に出、3分薄いハイマツを漕いで山頂に到着する。
山頂からの景色は、日高幌尻岳は手前のコブに邪魔されてすっきりとは望めない。エサオマントッタベツ岳の北カールのモレーンとプロテーラスランパートが四段くらい並んでいるのがくっきりと見える。東方はハイマツが高くて展望が少なく高い山もないが、他の三方を日高の巨人にすっかり囲まれているのはかなりの迫力だ。
910m二股の枝沢(右上) 本流はタコかUFOのような小滝 |
F4(1350m) |
天気は曇り。幌尻岳もエサオマントッタベツ岳も写真は撮ったが、白く暗い空の中で、見栄えがするものにならず。下山中にガスが出て小雨が降ってきた。時間は登り4時間半、下り3時間45分。短い割に時間はかかった。増水してなくて、濡れ落ち葉が岩についてなくて、前夜の寝冷えか下りで喉が痛くならなかったらもう少し早く通れたと思う。
面白い沢ではあるけれど、技術的には中級と言ってよく、ちょっと背伸びしてしまったかな、と言う反省がある。「北海道の山と谷」の難易度表現(山谷グレード)で言うと、!!の上の方といったところか。その他の日高の沢と比較すると札内岳ガケの沢よりは上、長さを考えずに技術だけ問うとしたら豊似川右股やヌビナイ右股と同じくらい、と言ったところだと思う。
昭和28年に決定した基本測量長期計画で北海道分の地形図は昭和30年頃から現地調査のやり直しや航空写真の撮影が行われたという。地名も市町村から地名調書を集めたが日高山脈山間部の地名は町村境上の山名が町村によって異なるなど、地理調査所/国土地理院としてどれを地形図に記載すべきか判断に困るものがあったという。
そこで北大理学部の地質学専攻で「日高の主」と言われていた橋本誠二氏に相談し、橋本氏は北大山岳部部報や地質学や動植物学の研究論文で使われている日高山脈の山名については市町村の同意を得るに及ばないという了解のもとに、北大山岳部部報などから山名を拾い出して地図に記入し、国土地理院に回答したという。その控えなどはなく、国土地理院の返答もなかったという。だが、凡そ橋本誠二氏の回答の通りの山名がその後の地形図に採用されたという。
昭和31年測量、昭和34年発行の五万図「札内岳」図幅には「カムイ岳」と載る。
国土地理院の地形図で漢字書きの「神威岳」となったのは昭和50年測量、昭和51年発行の2.5万図以降である。
大正4年選点の山頂に置かれる三等三角点の点名は「神威岳」で点の記に振り仮名が「カムイダケ」とある。
昭和15年の時点での橋本氏のカムイ岳の認識が北大山岳部部報7号にある。「極めて不十分ないくつかの資料より考えてみ」ると昭和4年に芽室のアイヌの水本文太郎に先輩達が聞いたカムイエクウチカウシは1978mの今と変わらぬ位置のカムイエクウチカウシ山の位置ではなく、カムイ岳と呼んでいる1756m峰がカムイエクウチカウシらしいという。そのカムイ岳から発する北面の沢がカムイクチカウと呼ばれ「聖なる断崖のあるところ」という意味なのだという。
しかし、カムイエクウチカウシ山がかつて測量の際に札内岳第二峰と名付けられていたという明治26年発行の北海道実測切図(道庁20万図)でのカムイクチカウはカムイ岳の発する北面の沢に振られた地名ではなく、戸蔦別川の対岸でカムイ岳北面のカタルップ沢より少し上流側の妙敷山の南尾根の末端にある。札内岳第二峰という名は道庁20万図になく、山名というよりは測量上の点名としてだったと思われる。昭和15年の橋本氏が何を根拠にカムイクチカウをカムイ岳北面としたのかを記していないので、もしかしたら明治26年以前の測量の資料を見てそう判断する何かがあったのかもしれないが、発行された北海道実測切図を見る限り、昭和15年の橋本氏の指摘は当たっていないように思われる。
慶応大学の山岳部は測量の点の名を三角及び水準成果表で把握していたようで、部報の登高行には細かく山の名が、三角点の名そのままに記されているものがある。慶応大学山岳部出身の田中三リが奥書の編集者の名となる昭和6年発行の「北海道の山岳」では五万図の札内嶽図幅の、当頁でのカムイ岳が「神威岳」とされる。そうしたものが北大山岳部でも見られ、カムイ岳の名が大正4年に付けられた三角点の名であったことが25年後の昭和15年頃には意識されずに使われていたのが若い橋本氏の「現にわれわれはこれを、単にカムイ岳と呼んでいる」ということではなかったか。
大正4年の選点も明治26年以前の北海道庁の測量から20年以上の後で、「神威岳」の三角点名も先行する地形図から近傍にあった地名を拾って音の一部を借りて、漢字を宛てて神威岳としただけなのでないかと思う。
カナ書きだったカムイ岳が昭和51年の地形図から漢字書きの神威岳になったのは、三角点を点名まで記す営林署が作る林相図から地元の市町村が地名調書に漢字書きの山名として記して国土地理院が採用したのだと思う。
昭和46年の北大山の会編「日高山脈」に橋本氏はカムイエクウチカウシ山の山名について「山脈の開拓期、戸蔦別川のカムイクチカ(ママ)という所で露営中、札内川上流のこの山の名をたずねると、案内のアイヌがうるさくなって、カムイ・・・と答えた。それがこの山名のおこりであるという。」と記しているので、昭和30年頃の橋本氏も15年経って、北海道実測切図を見直して、カムイクチカウについてはカムイ岳北面ではないと考えていたのだろうが、北大山岳部内で使われ続けていたカムイ岳を1756m峰の名として国土地理院に回答したのではなかったか。但し、北大山の会編「日高山脈」のこの辺りの記述に関しては誤認が多いようだということを村上啓司(1976)が指摘している。国土地理院の書庫に橋本氏の回答は残されていないだろうか。
渡辺隆(2015)は安政頃の野作東部日記が新冠川の水源の山として挙げる「悪魔山」をカムイ岳と思われるとしているが、新冠川下流域の平野部の上手側の支流に悪魔(あくま)と同音を含むアクマップ川があるので違うと思う。野作東部日記の「凡川ヘ泝ルコト二十六里ニシテ水源ノ山ヲ悪魔山ト呼フ」を素直に読めば26里も奥ということならカムイ岳も悪魔山の候補の一つとなりそうな気がするが、すぐ近くの幌尻岳も新冠川の水源でありカムイ岳より高く大きい。一日で「会所ノ後山ヲ巡レリ」に続けての記述なのでカムイ岳や幌尻岳を意識するほど新冠川筋を遡ってはおらず、新冠会所の後ろの丘陵地から正面に大きく見える、アクマップ川の水源にあたる笹山(805.5m)を悪魔山と記したのだと思う。新冠川の水源が悪魔山なのではなく、悪魔山の奥に新冠川の水源があるという説明を聞いたのではなかったか。
★川名考
カタルップ沢は北大山の会編「日高山脈」(1971)に「カタルパ沢」とある。昭和50(1975)年測量、昭和51(1976)年発行の2.5万図以降の国土地理院の地形図では「カタルップ沢」とあるが、それより前の地形図では名が振られていなかった。戸蔦別川をカタルップ沢落ち口より更に遡ると明治期の地形図にカムイクチカウと書かれた戸蔦別川左岸の、妙敷山南尾根の西面末端の地形図で裂溝状崖記号が散らばる急峻な斜面がある。
この戸蔦別川左岸の岩の露出した急斜面をアイヌ語で kut-hur[ひどい岩崖の・山の急坂]と見、その下手にあるカタルップ沢を kut-hur pa[ひどい岩崖の・山の急坂・の下の方](クトゥルパ)と呼んだのが訛りと日本語耳での聞きなしでカタルパとなったと考える。アイヌ語で子音と母音の板挟みになった h はよく姿を消すということで kut-hur はクトゥルとなりうる。或いは kut-hur ではなく kut huru[ひどい岩崖・の山の急坂]か、kut or[ひどい岩崖・の所]か。
但し、pa で位置名詞の「下の方」とはアイヌ語の辞典等に見ていないのでイタリックとしておく。見たのはアイヌ語沙流方言辞典での「学術的な研究成果ではなく、仮に推測しただけ」という語構成または語源である。pa は位置名詞で上手の意味があるが、pan- や pana の語構成で pa が「下の方」や「川下」とされる。penke が川上の所で対になる panke が川下の所で、pe に「川のかみ」の意があるのは、pa に下の方の意もあったと考える。
「カタルップ」は昭和50年以前は「カタルパ」だったのが訛ったのだろうか。或いは北大山岳部などの記録からカタルパを地元の役場でも把握していたが、そのままでは意味が考えられず、元はこうだったのではないかという、例えば語末が「ップ」というのはアイヌ語地名でよくある等の推測の形が地名調書で上げられて昭和51年の2.5万図で採用されたのか。
参考文献
村上啓司,日高の山名について,写真集日高山脈,山口透・鮫島惇一郎・村本輝夫,北海道撮影社,1979.
橋本誠二,あの頃の山登り,茗渓堂,2002.
北大山の会,日高山脈,茗渓堂,1971.
北海道庁地理課,北海道実測切図「沙流」図幅,北海道庁,1893.
齋藤長壽郎,札内岳(一九七九米突)及びイトンナツプ岳,pp148-159,7,登高行(慶応山岳部年報),体育会山岳部,1929.
安田治,北海道の登山史,北海道新聞社,2010.
田中三リ,北海道の山岳(登山案内),リ林堂,1931.
村上啓司,日高山脈の山の名10,pp17-20,293,林,北海道造林振興協会,1976.
渡辺隆,山の履歴簿 第2巻 北海道中央部,北海道出版企画センター,2015.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
トップページへ |
資料室へ |