函館山 観音コース

函館山 観音コースの地図 観音コースは函館山に北側から登るコース(2009年8月登頂)。片道1時間程度。

 登山口は分かりにくい。いろいろな観光地図を事前に見ていたがどこから登るのかよく分からず、結局、幸坂の突き当たりの山上大神宮から登った。社殿の右脇に、森に入るちょっとした階段があったので、そこから踏み跡を辿り観音コースに合流した。下方のお寺群から観音コースは始まっている。

 翌日、寺巡り的にお参りして確認した。称名寺・実行寺・高龍寺のいずれの寺からも裏手の墓地を通って登ることが出来る。函館山に安置されている三十三観音の33番は称名寺の墓地の中にあるので、「観音コース」というコース名に拘るならば称名寺から登るのが良いのかもしれない。但し、観音巡りの順番は逆になってしまう。本堂などはレンガ塀などで分けられている三ヶ寺だが、墓地は渾然としている。


高龍寺山門
壮麗

最初のうちは
車前草の道

 山上大神宮からの合流点のすぐ上の右手に鶏冠石の敷地がある。32番の観音様も同居していて、鶏冠石は低いブロック塀で囲われている。松浦武四郎は函館山の別称として、山が鶏冠(トサカ)に似ているからと鶏冠峯という呼称を書き残している。確かに函館山は鶏冠のようにも見える。現在の薬師山にあったらしい鶏冠石だが、明治末期の函館山の要塞化に伴って、トサカっぽい出っ張りを削られて此処に下ろされたという。現在の鶏冠石の後方にコンクリで貼り付けられたようにあった小岩はトサカの出っ張りだったのだろうか。


鶏冠石

笹原の道に

カラマツ

 鶏冠石にいろいろ字を書いたと言う伝説のある日持上人は日蓮宗の人だから、ここは実行寺の敷地と言うことか。日持上人の伝説を作ったとされる日尋上人も日蓮宗の人である。

 鶏冠石より上では少し踏み跡が錯綜しているが一番歩かれている雰囲気があるのが観音コース本道だ。このあたりは函館国有林で函館山の森の大部分(函館市の管轄)とは所管が異なるようだ。太い杉の木に赤ペンキでマークが付けられたりしていて、観音コース以外の踏み跡は営林の作業道なのだろう。

 尾根上であることが顕著になり、29番観音は青葉山松尾寺。最近登った遠方の山だけに、ちょっと馬頭観音様にも懐かしさを覚える。登山道脇には旧日本軍の境界標である石柱も残されている。海軍と陸軍が二本並んで立っているのは面白い。奥にレンガ造りの要塞の遺構か何かが少し見える。

 森が大きくなってくる感じがすると、ヒョイと車道に出てしまう。ここには「観音峠」の看板が立っているが、峠の要件を満たしておらず、変な感じがする。車道を横断して更に進むと再び車道に出て、こちらには「観音森」の看板があった。ここは現・観音山と函館山最高峰御殿山との鞍部になっており、「峠」の名に相応しい。何か間違いがあったのではないだろうか。この辺り一帯の森を観音森とは言うようだ。函館山は近世までに薪の需要でほとんど禿山にされていたと言うが、このあたりには森が残されていたのだろうか。樹種としては北海道には自生しないアカマツやカラマツが多く混じり、原始林の雰囲気があるわけではないし、他の登山道と比べて特別に太い木が多いと言う雰囲気でもない。常緑のアカマツがあるので、禿山だった頃から「森」として意識されていたと言うことだろうか。

 「観音森」の峠から斜面のトラバース様となり道が少し細くなる。丸太の階段が続くようになるとすぐに、つつじ山駐車場の一角に上がる。舗装道路が駐車場前で三叉路になっており、車道を渡るとコンクリの階段で歩道が御殿山方向に続いている。もう一度車道を横断し、石仏や石碑を集めた一角を横目に見てまもなく御殿山山頂に達する。ロープウェイ駅舎の南側で、込んでなければ観光客はあまり来ないエリアだが、団体写真用の雛壇が準備されていた。


陸軍と海軍の標柱

観音森の道

観音森の道

★山名考

 観音山は資料によっては265mと標高を書く御殿山の北西の尾根上のコブで、高龍寺山・高龍寺上山と書いている資料もある。函館山全体を明瞭に観音山と呼ぶ資料は安政の頃から現れるようだ(平尾魯僊1855・長沢盛至1855)。その頃既に西国三十三観音巡りは函館山に設けられていた1)。また、箱館地区の観音堂は水元谷に設けられていたようだ。現在の観音山を観音山と呼ぶ資料は寛政の頃よりある(渋江長伯1799)。この時期に移土33観音巡りはまだ設けられていない。函館山主峰としての観音山は水元谷の観音堂に由来すると考えて良さそうな気がするが、尾根上のコブとしての観音山は観音巡りのラストに位置する山だから、この山名と言うわけではなさそうだ。よく分からないのでもう少し調べてみたい。近代以降の資料では、265mのコブは高龍寺山としている資料の方が多い印象がある。函館山の山中や麓にある函館山の写真の看板では、高龍寺山は観音山とは別の山としてもっと標高の低い位置に名が振られていたが、実際は同じピークを指しているのではないかと思う。

参考文献
1)道南の歴史研究協議会,函館山のルーツを探る,pp703-709,72,道南の歴史,いせや書房,1981.



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(2009年9月13日上梓)