欝岳の位置の地図
欝岳 (818.3m) 於達辺川 北西面直登沢?
うつだけ
おたっぺがわ

 オホーツク海側の孤立峰。地図で見ると、平らで長い尾根を引き、のっぺりしてそれほど魅力的な山容ではないが、5万図の図幅いっぱいに近い広大な裾野がどうなっているのか見たくて行ってきた。展望は良好。


鬱岳の地図1鬱岳の地図2

 標高400mまで開放の林道があり、それほど遠い山ではない。しかしこの林道が開放されていると知らなかったので、興部市街地の道の駅のライダーハウス・ルゴーサエクスプレスに前夜泊して、海岸から人力(自転車)で登った。ライダーハウスは季節営業。

ルゴーサエクスプレス
ルゴーサエクスプレス

 興部の海岸沿いから直接、藻興部川〜支流の於達辺川と登ってくると、途中の於達辺川本流林道に鎖がかけられ通行止めであった。標高400m付近で山腹を巻く、上藻豊野連絡林道が自由通行なので、興部方面から上がる場合は瑠橡川沿いの豊野地区を経て右の沢川沿いに上がり、西興部方面からの場合、上藻地区から八号の沢沿いに上がる。

 於達辺川北西面直登沢にスパイク足袋で入渓。ごく細い流れで下の方で岩盤が現れるものの問題のない沢だ。岩はスパイク足袋でも滑らない。鬱岳は花崗岩という話だが、見た感じだけでは地質に素人なこともあって、よくわからない。沢は細かく伏流と復水を繰り返し、ツルネコノメと苔が美しく、水が冷たい。伏流と復水を繰り返すように岩が鋭く細かくなって堆積しているのは、硬く砕けやすい花崗岩が氷河期の凍結破砕作用を受けた結果なのだろうか。

 540mあたりで水はなくなる。沢地形はその上ですぐ不明瞭になり、大雨や雪解けでもこれより上には水は流れないようだ。ずいぶん地下水位の低い山な印象だ。地形図で見るほどは沢地形が顕著ではない。水がなくなってしばらくはナキウサギの巣のような風穴が地面にあり、コロコロと水の音がして冷気が出ている。ヤブを漕ぐようになると、まもなく一本目の作業道跡を横断する。

 更にヤブを漕ぎ、あと3本作業道を横断。ヤブは次第にネマガリタケが混ざるようになり、きつくなってくる。点の記で北尾根稜線の作業道を登ったとの記述があったので、それに突き当たらないかと左寄りに漕いでいった。作業道跡はいずれも右肩上がりだ。


欝岳から西方向を望む

欝岳から北方向を望む

 標高750mの5本目の作業道でGPSで現在位置を確認して、左に寄り過ぎている感じがして尾根上の点の記の作業道跡も怪しいので、右に作業道跡をたどって、道跡が山頂に最も近づいたところでヤブに再突入した(作業道跡上もヤブだが)。

 標高790mあたりで森林限界を越え、高密度根曲がり竹帯になり、その中に殆どわからなくなった6本目の作業道跡を見出し、三角点のやぐらの跡の材木を踏んで山頂へ着。展望は良好。見栄えのしない山頂だが、この広大な山域の最高点である感じはする。ダケカンバとトドマツの枯存木と大きなチシマザクラのある丈の低い笹原だった。ピヤシリ方面とウェンシリ方面の山がよく見える。オホーツク海は意外に近い。暑くて虫の集会場になっていた。紋別のオホーツクスカイタワーが見えた。

 下山は5本目の作業道を北へ下ってみた。6本目の点の記にあるネマガリタケの中の作業道跡はヤブが濃いので伝うのを諦めた。

 北西面直登沢の途中で北東に分かれている沢地形の中を道は続き水流が現れると右岸に上がり、標高460mの二股で左岸に渡りその後、尾根を回りこんで西隣の沢に出て林道につながっているようだが、草の繁茂がひどいので沢の中の方が快適だろう。標高460mの二股では大きく崩れていて、登りでは作業道があったことには気が付かなかった。


★山名考・川名考

 渚滑川支流の宇津々(ウツツ)川の源頭の岳ということで鬱岳の名なのだろうが、三角点のある山頂は、厳密には宇津々川の流域にあたっていない。

 ひどい山名だと思っていた。音はそうだったとしても字が悪いと思っていた。が、「欝」の字を漢和辞典で調べてみると(「鬱」が正字)、気分が塞ぐ意味より先に、木々がこんもり茂っているというような意味が先に書かれていた。始めからこれを狙っていたのなら、一度伐られているとは言え、いずれは樹木に覆われることになる欝岳の山の姿を表す字としては当を得た当て字だったのかもしれない。

 松浦武四郎は安政5年の手控(フィールドノート)に宇津々川の名を「ウツ」、「ウツナイ」と、由来について「ウツナイ 本名ウツカ、むかし此前瀬大きくして、不行由によって号」と地元のアイヌの人から聞き書きしている。同年の日誌では、「ウツナイ 本名ウツカと云よし。其義往昔は此前に大なる瀬有て、舟を引揚し由なり。依て此名有とかや。ウツカは瀬の事也。」としている。

 山田秀三(1984)は宇津々川の名について、「沼や大川に肋骨のような形で繋がっていた川だというが、どうもよく分からない川名である。」としている。ut はアイヌ語で肋骨などを意味し、本流に対して横から合流するような支流を表したアイヌ語の地名表現だという。宇津々(ウツツ)川が、渚滑川の ut と例えられるか。支流としては程々に大きい河谷で、渚滑川に直角に注いでいるわけでもない宇津々川を、渚滑川を背骨と見なして肋骨と例えられるのか、私も怪しい気がする。


鬱岳・ウツツ川の mata ru[冬・道]推定
mata ru の鬱岳より西は分かりやすい地形を繋ぐと
いうことで忍路子川〜五六峠経由を考えたが
もっと北或いは南でより直線的であったかもしれない

 utka[川の波だつ浅瀬]がウツ、ウツナイになるというのもどうもよく分からない。宇津々川の本流である渚滑川は南側に撓んだ流れ方をしている。名寄盆地の天塩川上流域から渚滑や元紋別・紋別に出るのに大川である渚滑川沿いに進むと南側に撓んでいる分、移動距離が長くなる。冬場は大川の渡渉は体が冷えるので消耗する。名寄盆地から紋別・渚滑に向かい、大川の渡渉と距離が長くなるのを避ける、それほど高くもなくなだらかで雪に覆われていれば稜線の歩き易い鬱岳越えの冬のルートがあり、その出口が宇津々川であり、put ne -i[出口・である・もの(川)]の転訛がウツナイであり、put -ke[出口・の所]の転訛がウツカではなかったかと考えてみる。アイヌ語地名ではヱシヨハケ(pes pakeのように語頭の p が落ちている記録が見られる。鬱岳の「うつ」はアイヌ語の put の転訛でないか。山田秀三(1984)は、道内の他の ut[肋骨]と言われる地名に対しても疑問を呈している。横から入る支流として短く、その上に大きな沼のある苫小牧のウトナイ沼の名も、石狩川流域から太平洋側に出る put ne -i[出口・である・もの(沼)]の転訛でないかと疑ってみる。ウツナイ/ウウツの記録のある北広島の輪厚川も、遠回りで曲流する湿地帯の千歳川下流を避けて札幌方面から厚別川を越えて東や南に向かう put ne -i/putではないかと考える。或いはウツナイは put -na -i[出口・の方の・所(川/谷)]か。他の ut と言われる例を更に考えたい。

 積雪期に宇津々川から出てきたとして、半年後の無雪期に引き返すのは渚滑川を遡り、sak ru[夏・道]である札久留峠を越えたのではないかと考える。鬱岳からは東へ宇津々川の他に北へ瑠橡(るろち)川が流れ出ている。名寄盆地〜渚滑・紋別の東西の往来だけでなく、興部〜石狩上川など南北に積雪期の鬱岳山頂を往来したアイヌの人のグループもあって、ru or -ot -i[道・の所・についている・もの(川)]か、ru puci[道・の出口]と瑠橡川を呼んでいたのではないかと考えてみる。


於達辺川落ち口付近の地図

・於達辺川

 於達辺川の名の記録は、松浦武四郎の安政5年の手控に「ヲタツヒン」とあるのが古いようで、地名の訳として「両方峨々たる処の中滝也」とある。

 於達辺川を地形図で落ち口から源頭まで見渡しても滝のありそうな所が見当たらないが、岸辺が立って多少迫っている所は落ち口の2.4kmほど南西にある。そこも滝は無さそうである。

 手控の地名の訳はアイヌ語の滝(so)は入っている感じがしないが、「両岸が切り立った所の中」というのは utur[の間]の音を思わせる。「オタッペ」の前半は、元はオタよりウトゥのような音だったのではないかと考えてみる。

 於達辺川は明治29年の北海道実測切図には「オタッチ」とある。明治31年のオタッピムとするものもあるという。

 於達辺川の落ち口付近を見ると、本流である藻興部川は谷も水流も直線的に流れている。そこから線路が分岐するように於達辺川の谷と水流が分かれている。藻興部川の水流の流れ方は河川改修されているのだろうが、谷が直線的なのは昔から変わっていない。直線的な所で横に分かれていく、ウトッチ utotcim脇の分かれ]ではなかったかと考える。山名で見た渚滑川筋と宇津々川筋の分かれは斯くも明瞭に脇に分かれているとは言えないと思う。ut は肋骨で、脇は ut or[肋骨・の所]で、体なら肋骨で象徴される脇という部位なのだと思う。アイヌ語では car par や、歴船川がヘロチナイと書かれるなど c と p に相通があるようなので、ピはチの訛りと考える。utotcim をイタリックにしたのはアイヌ語辞典等に見ていないからである。

 見たのは地名アイヌ語小辞典の不完動詞 cimi[左右にかき分ける]と、萱野茂のアイヌ語辞典の cimi[分ける]、アイヌ語沙流方言辞典の utor で始まる項、言語学大辞典のアイヌ語の項の語形成についてである。地名アイヌ語小辞典で cimi が cim-i と分解されているので、後半の -i をアイヌ語沙流方言辞典にある他動詞形成の接尾辞と考え、同辞典で用例としている「as 立つ;asi ...を立てる」の類推で、cim を自動詞の「分かれる」ではないかと考え、同辞典で「脇」や「肋骨の所」とされている utor(<ut-or)に修飾された合成自動詞として utotcim(<utor-cim)があったのではないかと考えた。その名詞的用法の訛りがオタッチと考える。

参考文献
長澤規矩也,携帯 新漢和中辞典,三省堂,1981.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集6 午手控2,北海道出版企画センター,2008.
松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 中,北海道出版企画センター,1985.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.
松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
伊藤せいち,興部町のアイヌ語地名,pp77-100,6,アイヌ語地名研究,アイヌ語地名研究会・北海道出版企画センター(発売),2003.
北海道庁地理課,北海道実測切図「猿澗」図幅,北海道庁,1896.
知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
萱野茂,萱野茂のアイヌ語辞典,三省堂,1996.
田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
田村すず子,アイヌ語,言語学大辞典 第1巻,亀井孝・河野六郎・千野栄一,三省堂,1988.
中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.



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(2003年6月13日上梓 2017年10月25日改訂 2018年3月26日改訂)