白鳥山
幌加内坊主山から
白鳥山(776.1m)=雨竜白鳥山=鷹泊坊主山
右大股川

 幌加内盆地をはさむ2つの坊主山のうち西の方。蛇紋岩の山で標高が低いながら珍しい植物が分布すると聞いていたが、秋でもあり咲いている花は殆ど見当たらなかった。しかし、広大なお花畑草原は確かにあった。南・東・北・北西面を川沿いの道路のない雨竜川とその支流に遮られ(林道はあるが恐らく非開放でアップダウンが大きくて長い)、山頂に直接突き上げない南西面の別の水系の沢だけが実質的に登路と考えられる。地形図では単に「坊主山」であるが植物学では古い名前の「白鳥山」が使われ、こちらの方が個性があって良さげなのでこちらを頁のタイトルにした(山頂の三角点の名前も「白鳥山」)。


 深川市側の鷹泊貯水池の横の林道を通れれば、「坊主の沢」が最短ルートとなりそうだと考えたが恐らく林道が通れなかろうと思って沼田町側から登った。後から地図を見直して、深川市側の林道が通れたとしても坊主の沢の落合までの250mのアップダウンを考えたら、登り返しのない沼田町側の方が楽だったと思う。

 ホロピリ湖の奥の右大股川沿いの太刀別林道から入山。林道入口にはゲートがあって数字を合わせる方式の鍵がかかっていた。林道は湿気た感じでクローバーが多く茂っていた。地形図上では何度も川を渡るように太刀別林道が書いてあるが、実際は地形図よりやや南にあって殆ど左岸沿いを走っている。林道5kmは自転車使用。210mの二股を過ぎた所から先は林道が整備されておらず、高茎植物のブッシュで自転車では走れないので歩くことにする。

白鳥山広域地図 右大股地図

函と言う程でも
無い

 地形図図幅のちょうど境界にあたる230mの二股は沢は橋ではなくコルゲート管でくぐっている。この先、沢は地形図で見るより激しく屈曲し、距離が地形図から見積もったより長くなって時間がかかる。340mあたりに小さな函があるが簡単に越えられる。時々、砂岩質の滑床がある。熊の雰囲気は感じなかった。オレンジ色の直径50cmほどの、ほぼ球形の岩が時々河原にあって珍しい。それにヒビが入ったと思われるパイナップル状(亀甲状)の岩もあった。

 こうした球状岩は「亀甲石」と呼ばれているようだ。亀甲石はノジュールの一種で、成因の機序には色々説があるようだが、泥岩の元になる泥の層にアンモナイトや貝のような生物の死骸が混ざっていると、その遺体の成分が広がって泥が固まり、周りの泥岩より硬い丸い岩「ノジュール」ができるのだという。ノジュールの中にはアンモナイトなどの化石が埋もれていることもあるらしいが、この辺りの大きなノジュールにはあまり化石が入っていないらしい。


球状の亀甲石

亀甲石

変わった色の石

 360mの直登沢出合の二股は、出合だけ小さいルンゼ状になっていて腕と足で両岸を突っ張って越える。その後は3,4つの2mほどの小さな滑滝があるが、いずれも簡単に登れる。厳密には山頂最高点に突き上げていない沢なので直登沢と言って良いのか迷いはあるが、当頁では直登沢としておく。


直登沢出合

直登沢の滑滝

 500mあたりは右岸からの斜面崩壊で湿地状になっており、右岸にまだ草の生えていない裸地があったのでそこに少し登って越えた。ここで初めて山頂稜線が見える。

 少し左へ回り込んだ後、510mで流れが東へ向かうと再び小さな滑滝が現れだす。勾配が急で滝の間は石がごろごろしていて日高山脈の沢登りに似た雰囲気が少しある。

山頂付近拡大図 600m辺りで周りは草原となり、沢沿いにはチングルマが多いが既に紅葉していた。一旦沢形はネマガリタケの中に入るが、まだ足元は湿っている。小さな平坦地を経て水がなくなるとまもなく縦長の草原があり、これが700m辺りまでつながっている。その後は丈の高いハイマツ漕ぎだ。

 この沢は直接山頂に突き上げていないので数百mハイマツを漕いで山頂へ移動する。冬には南東斜面に大きな雪庇が出来てヤブが低いかもしれないと思って東面へ移動してみたが、到着した辺りは斜度が緩く、それなりの密度のハイマツの混じった潅木林が続いていた。

 それでも山頂が近づくと東面は砂地の裸地や草原が現れるようになる。稜線上にはハイマツ・ネマガリタケの下とも薄い道の跡の様なものが見られたが、山頂までは続いていないようだった。東側斜面には花の時期はそれなりに多くの花が咲くのだろうが、今回はエゾオヤマノリンドウが一株咲いていただけだった。東面の坊主の沢から上がってくると殆どヤブ漕ぎはないが、坊主の沢の標高400mあたりには函状の険しい斜面が見えた。崩れやすい蛇紋岩の山なので函の中はゴーロなのかもしれないが。


青い蛇紋粘土

山頂を望む

東側斜面の様子

 高曇りだったが利尻山や富良野岳、芦別岳までよく見えた。

 南側には鷹泊貯水池の水面と南の稜線の溶岩台地のような662m,676.8mのコブが見える。東側の幾つかの緩い稜線には作業道の伸びているのが見えた。蕎麦だろうか、幌加内盆地にニオを焼く煙が何本も立ち登っているのが見える。北側にはニセイノシュケオマップ川の横谷に断裂されながらも走向山稜として続く天塩山地の主稜線がポクポクとした山を連ねて三頭山・小平蘂山までつながっているのが見えた。

 山頂は腰ほどの高さのブッシュの中。三角点の標柱は倒れていて、そこに座って昼食にした。山上や沢の上流部は殆ど人が入ってない雰囲気で痕跡も見なかったが、直登沢出合の小さなルンゼや河原の足を置きやすい岩には、苔の薄い箇所があったので、全く人が入っていないわけではなさそうだ。

 下りは東面に見えた砂地にヤブ漕ぎ無しを期待して東斜面をトラバースしながら登ってきた沢に移動したが、砂地は少なくハイマツと高い潅木のミックスでヤブ漕ぎは多かった。登ったルートをそのまま引き返すよりは早かったと思うが、登りには使いたくないコース取りだった。


東面・坊主の沢中流部
函状に見える

ゴールは
寂しい

★山名考・川名考


白鳥山から
名づけられた
シラトリシャジン
(士別市内にて)

 その名を初めて聞いた時、雪型で白鳥でも出るのかと思っていたが、アイヌ名がシルトゥルヌプリ「山の間の山」で、山の間に山があるのではなく幌加内側から見てこの山の裏側の幌新太刀別川流域を sir-utur「山の・間」と呼んだことから、その名の付いた諸川が流れ、その水源の山としてこの名がつけられたという1)。山の名でなく川の名が先であるけれど、幾重にも尾根で遮られた深い山間である。「はくちょう」ではなかった。特産のシラトリシャジンの名では「シラトリ」であるが、大正5(1916)年選点の三角点の名では「シロトリヤマ」であった。白鳥山の名前に由来するシラトリシャジンは昭和10(1935)年の命名である。

 江戸時代の松浦武四郎の安政4(1857)年の紀行の復命書である丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌とその年のフィールドノートである巳手控に、トママイ運上屋の上から描いた天塩山地の山並みの絵の中で白鳥山の音に近いシルウトルノホリの山の名があった2)3)。日誌の本文や手控の中の文章では登場しないようだ。絵の中で、扁平な富士形の山にコタンヘツイトコとシルウトルノホリと文字が振られている。南側に少し裾を下がった位置に子ツフ子ナイイトコとある。その南側にカシ子ノホリとある。渡辺隆(2002)は、このシルウトルノホリを坊主山=白鳥山としているが、この絵を細かく見るとどうも違う気がする。


巳手控 トママイ運上屋の上より眺望 模写

 この絵の山並みについて秋葉實(2004)は手控の絵にあるハホロピッシリ(日誌の絵ではヒツシリ)をピッシリ山、カシ子ノホリを白頭山としている。これに従うとシルウトルノホリの描かれる位置はコタンヘツイトコ(古丹別川の水源)であるから白鳥山の位置ではなく羽幌岳となるということでないかと思う。秋葉實(2004)は「羽幌岳?」と注を入れている。だが、600m台の羽幌岳は1000m級のピッシリ山に比べると二回り標高が低い。絵の中ではピッシリとシルウトルノホリはほぼ同じ大きさと高さの山として描かれている。ピッシリ山の南方で同規模な山と言えば900mを上回る小平蘂岳から釜尻山の連山か三頭山である。これらの山の中で、小平蘂岳は古丹別川の水源にあたっているので、コタンヘツイトコとして描かれうる。三頭山は古丹別川流域から離れてしまう。日誌の挿画では富士形の山の頂の右寄りにコタンヘツイトコと、左肩(頂より一段下がった位置)にシルウトルノホリとあるが、手控の絵では文字の位置が逆で、富士形の山の頂の中央にシルウトルノホリとあって、左肩にコタンヘツイトコとある。左肩の辺りが小平蘂岳から釜尻山でコタンへツイトコ、富士型の山の最高所が三頭山でシルウトルノホリであったのだと思う。

 子ツフ子ナイイトコの、子ツ子ナイは安政3(1856)年の竹四郎廻浦日記やその手控である辰手控、東西蝦夷山川地理取調図の草稿である川筋取調図によると、古丹別川の三毛別川より下流の、ごく下流の支流のようである。竹四郎廻浦日記では左岸支流として子フ子ツナイ、川筋取調図では右岸支流としてケ子となっている。子ツ子ナイイトコやカシ子ノホリと言う地名は、白頭山よりもっと南方の三毛別川左岸の尾根上の低い山、目立つ古丹別の丸山を指していると思う。そう考えると三頭山より更に南方の白鳥山がカシ子ノホリの上の辺りに描かれていても良さそうな気がするが、三頭山より低く遠いが為に名前を付けて呼ばれなかったのか。いずれにしてもカシ子ノホリより北に見えたシルウトルノホリは当頁の白鳥山とは関係しない。

 日誌の挿画ではピツシリからカシ子ノホリの地名が全てスカイラインの上に書かれている。日誌の挿画のコタンヘツイトコとシルウトルノホリが手控と逆なのは、富士形の山はシルウトルノホリで、その手前の山腹にコタンヘツイトコがあるとの意ではなかったかと考えてみる。

・幌新太刀別川

 右大股川の名は地形図に因るが、この沢に沿う林道の名は「太刀別林道」である。タチベツは本来は左大股の幌新太刀別川(ホロニタチベツガワ)と同じニタチベツなのだと思う。山田秀三(1984)は幌新太刀別川を「poro-nitat-pet 大きい・低湿荒野の・川」とし、アイヌ語の名で記録されたことのない支流の右大股川をペンケシルトゥロマ(penke-shir-utur-oma-p 上の・山の・間の・もの(川)(上の山あい川)でなかったかと推測している7)。幌新太刀別川の一本下の支流(支線沢)がシルトゥルノケオマ(山の・間の・中央の・もの(川))、もう一本下流の支流(真布川/シルトルマップ川)がパンケシルトゥルマ(下の・山の・間の・もの(川))と明治の地図に記載されていたことによる。また、幌新太刀別川が永田地名解で、ペッでなくペで終わっているのは「語尾の処がつじつまが合わない」と指摘している。

 幌新太刀別川は、松浦武四郎の安政4年の記録では「ホロニタツコヘツ」とある。まずは PORONITACIKAPET < poro〔nitat ika pet〕[大きい・湿地・を越えて近道していく・川]かと考えてみる。幌新太刀別はニタチペの「ペ」をアイヌ語地名でよく使われる pe[もの]と考えると文法的におかしいことを山田秀三以前にも指摘した人がいて、ペがペッに置き換えて漢字をあてたのが幌新太刀別川の名では無かったのかと疑ってみる。永田地名解のニタチペの「ペ」はつじつまの合わない語尾ではなくは nitat pe[湿地・の上(かみ)]で、越えて近道する湿地の上手の所の川ということの永田地名解雨竜郡部の元になった測量地図を記した前田技手に地名を教えたアイヌの人の使っていた別名であったと考える。

 だが、どこの湿地を通って上手側にあたる幌新太刀別川に行くのかがわからない。幌新太刀別川と対になるポンニタチペは沼田ポン川である。雨竜川下流域右岸から幌新太刀別川筋に出るのは美葉牛川から低い丘陵地を越えるので、湿地を越えて行くとは言わないと思う。納内など石狩川右岸地域から石狩平野の北際の丘陵地の裾を湿地でない歩きやすい所として西に向かい、チクシュペッともされた秩父別から湿地の石狩平野と雨竜川を横断して幌新太刀別川筋や沼田ポン川筋に行けば地図上でなら湿地を越えて近道をしたことにはなるだろうが、雨竜川という相応に大きな川を渡るのを近道と言えないような気がする。また、雨竜川を渡った真正面の幌新太刀別川を石狩平野という湿地の上手と見なすことも出来ないような気がする。

 ニタツ/ニタチが何か別の言葉の訛音だったのではないかと考えてみる。夏に留萌川筋から石狩平野に入るに湿地の美葉牛川縁や幌新太刀別川縁は避けて、両川の間の丘陵地の稜線を道として石狩平野深部に入り、丘陵地末端が道の出口で ru puci[道・の出口]で、訛ったのがニタツ/ニタチでないかと考えてみるが、更に考えたい。

・sir utur

 sir utur は「山の間」ではなく、雨竜川本流沿いと幌新太刀別川沿いの「平野の間」でないかと思う。そう考えないと真布川や支線沢が sir utur にあるということに説明がつかない。三頭山がシルウトルノホリなのは幌加内盆地のポンカムイコタンを挟んだ南部と北部の「平野の間」の山ということでないかと思う。

 近接する白鳥山と三頭山を共にアイヌの人たちが sir utur と呼んだのかどうかには疑問が残る。雨竜川下流域を主な活動域としていたアイヌの人たちと、幌加内盆地を活動域としていたアイヌの人たちで同名異所となっていたのか。

参考文献
1)山田秀三,深川のアイヌ地名を尋ねて,深川市史,深川市,深川市,1977.
2)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,,北海道出版企画センター,2004.
3)松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1982.
4)渡辺隆,蝦夷地山名辞書 稿,高澤光雄,北の山の夜明け,高澤光雄,日本山書の会,2002.
5)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.
6)松浦武四郎,秋葉實,武四郎蝦夷地紀行,北海道出版企画センター,1988.
7)山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
8)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
9)松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
10)中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
11)北海道庁地理課,北海道実測切図「増毛」図幅,北海道庁,1893.



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(2004年10月2日上梓 2017年9月2日URL変更 2022年1月29日改訂)