道北・歌登町の石灰岩の山。日高累層群の陸地が北の端、北見神威岬に沈む前の最後の高まりである。同じ道北の西興部村に「ポロヌプリ岳」という、やはり石灰岩の山があるが、歌登ポロヌプリには珍しい花があるということが知られている。珍しい花があるということで業者や盗掘者などの踏み跡などあるのだろうか、と思いつつ登ったが踏み跡などは見当たらず、猛烈なネマガリタケのブッシュで守られた小さな花園であった。山名はアイヌ語の poro nupuri[大きい・山]と思われる。この地域ではもっとも大きく高い。
最寄のバス停は道道12号線、都市間バス特急えさし号で「般家内」下車。一日3往復。バス停から林道ゲートまで約6q。ゲートから鉱山事務所までは5qほどで、ここまで舗装されている。ここからは林道の表示があって入渓点までの1.5kmほどは未舗装だがそれほど荒れていない。入渓点には広場がある。
174m標高点の入渓点からせせらぎの川の中を歩く。210mの二股は水量の少ない右に入る。この先地図どおり、谷は狭まってくるが函などは現れないで、ずっと河原だ。両岸は緩い雪崩斜面である。途中の川岸に何かサクラソウの仲間が咲いていたがよく確認しなかった。季節柄シラネアオイを期待していたが全くない。道北には分布してないようだ。いくつかの小滝を軽く越して320mの二股は左に入る。水量は右の方が多く、河床も低い。あとは水流を追うだけである。時々、もう殆どヤブに還っているものの作業道跡が川を横断し、荒れた感じのすることがある。
水流はかなり上まであり、谷地形も山頂の北コルの寸前まで続いているが600mより上はかなりの根曲がりブッシュで、水が切れると猛烈なヤブとなり、810mあたりまでヤブ漕ぎは続く。後方には次第にオホーツク海などが見えてくる。ネマガリタケがハイマツに変わると山頂が見え出し、ハイマツは山頂に近づくにつれ丈が低くなる。この日はまだ残雪が少しあり、少々楽が出来たがそれでも一時間の猛烈なヤブ漕ぎだった。雪がなくなったら二時間以上は確実である。
山頂は、冬場、風で雪が飛ばされて積もらず土中深くまで凍結するのであろう、狭く赤い砂礫地となっており、お花畑である。ミネズオウ、イワウメ、ミヤマキンバイなど多くの種類の花が咲いていた。またハイマツの中にはキバナシャクナゲとチシマザクラが多く咲いていた。展望は北方と西方に宗谷地方らしいノッペリとした笹と疎林の周氷河地形が広がっている。そんな地形の中に小山がポコポコといくつか存在し、なかなか旅情のある風景である。南峰(840m)までの間もハイマツで、踏み跡は全く見られないが南峰には崩れて、高さ15cm程度になってしまった標柱の残骸があった。山の西側には露頭が多くアルペンチックであるが、東側はハイマツの向こうにネマガリタケとダケカンバのブッシュが見えており、高山的ではない。地図のイメージほど岩場はない。コルの北のコブは地図では岩場マークだが、実際は殆どハイマツで覆われている。
南峰の南側は大きな露岩になっており、キリンソウやミヤマオダマキ、ミヤマアズマギクなど本峰のお花畑とは異なる種類の花が咲いていた。まだ残雪の多く残る函岳、敏音知岳、松音知岳の展望が良い。この日は利尻山は見えなかった。山頂から人工物が見当たらないのに驚いた。しかし、明治三十年代の枝幸砂金のゴールドラッシュの頃は、パンケナイ川筋、兵知安川筋、宇曽丹川筋の各鉱区事務所を結ぶ一部は馬も通れたというポロヌプリ山周囲の山越えの道が見え、谷筋をうごめく砂金採取者やその小屋や炊事の煙が見え、砂金採掘者の中にはポロヌプリ山頂まで登って、露岩に金が含まれていないか削ってみた人もそこそこいたのでないかと思う。
山頂から見た 宗谷丘陵の丘の上 |
山頂の様子 |
参考文献
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
枝幸町史編纂委員会,枝幸町史 上巻,北海道枝幸郡枝幸町,1967.
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