歌枕の青葉山

 千賀璋の若耶群談の引用から、歌枕としての青葉山を追ってみた。若耶群談には「勅撰名所和歌抄云、八雲御抄并範兼抄當國云々、清輔抄陸奥云々、宗祇國分近江入之也。」とある。勅撰名所和歌抄と呼ばれる書物には勅撰名所和歌要抄、それを元にした勅撰名所和歌抄出など幾つかあるようだが、翻刻されているのは勅撰名所和歌抄出のみのようなので、まずはこれを見てみた。室町時代の連歌師宗碩の編による勅撰名所和歌抄出では、青羽山を若狭とし「八雲御抄并範兼抄當國云々、清輔抄陸奥云々」と若耶群談が引用した通りの文章があった。「宗祇國分」については書かれていない。万葉集の三原王の歌と、新古今和歌集の式部大輔光範の歌があげられている。勅撰名所和歌抄出は古活字版もあり、写本が極めて多いとのことで、他の勅撰名所和歌抄に比べて千賀璋の目に触れやすかったとは考えても良いのではないか。翻刻されている勅撰名所和歌抄出東洋大学本は例歌数が多く、後人による増補の疑いがあると言う。勅撰名所和歌要抄抽書でも若狭とされている。

万葉集 巻の八
秋露者 移尓有家里 水鳥乃 青羽乃山能 色付見者  三原王
(あきのつゆはうつしにありけりみずどりのあおばのやまのいろづくみれば みはらのおおきみ)

新古今和歌集 巻の七
立ち寄れば涼しかりけり水鳥の青羽の山の松の夕風  式部大輔光範

 次に順徳天皇による八雲御抄を見た。名所の部で若狭の「あをばの」の項に「青羽」と漢字を当て、「水鳥――。又丹波境歟。可尋。清輔抄在陸奥同名山歟。」とあった。「歟(カ)」や「可尋」を見ると、順徳天皇は青葉山に関しては覚束ない知識との自覚があったのではないかと思われる。

 範兼抄については、藤原範兼による五代集歌枕などが目されるようだ。藤原範兼による五代集歌枕と和歌童蒙抄に、青葉山に関する歌があった。五代集歌枕の「あをばの山」に引かれる万葉集の三原王の歌の、直前の歌は若狭とことわられての「のちの山」(ママ・のちせの山:後瀬山)である。和歌童蒙抄では「青羽山は若狭の國にあり。」と明言しているが、三原王の歌については地名の青葉山を歌ったものではなく「只青山とよめる也」としている。この三原王の歌について、万葉集には若狭とのことわりは無い。契沖も勝地吐懐編一巻本で、この歌の青羽山を名所で無いとしている。吉原栄徳(2008)も契沖を引用し、地名で無いとしている。

 清輔抄については、藤原清輔の和歌初学抄に名所の一覧があり、「あをばの山」が陸奥として挙げられている。同名異所として「青葉山」と書かれたこともあると言う現在の福島市内の信夫山のことかと思われるが、「しのぶ山」も陸奥の名所として「あをばの山」に続けて挙げられている。藤原清輔がどの歌を以って「あをばの山」を陸奥としたかについては見ていない。

 宗祇國分が何を意味するのか分からなかったが、飯尾宗祇の作と伝えられる(が、宗祇の作を証する内部徴証はないと言う)成立年未詳で寛文6(1666)年から版本の出ている「名所方角抄」のことではないかと思う。刊本では扉に宗祇の名が大きく書かれるものもあり、若狭國分、丹後國分のように国別に章題が立てられるこの本は、野中(1980)による三系統(甲・乙・丙)と、渋谷(1982)によって追加された一系統(丁)の合わせて四つの系統があるが、どの系統でも青羽山は若狭に分類されているようだ。実物を見てみた甲と乙の系統と、渋谷(1982)・渋谷(1984)に載せられた丁の系統の影印では、若狭に分類されていた。渋谷(1982)には丙と丁の比較があり、若狭国分に関しては丙と丁は同一とのことである。千賀璋が見た未だ知られぬ系統の名所方角抄では近江になっていたのだろうか。渋谷(1982)は丁の年代を室町時代と見ており、宗祇の編と言う説を捨てきってはいないようだが、野中(1980)は国分の誤りなどから名所方角抄を宗祇の作ではなく後人による仮託としている。宗祇の作の「浅茅」には名所が例歌で国毎にあげられているが「国分」と言った章立ては無く、青葉山/青羽山の歌は無い。

 現代における式部大輔光範の歌の解釈で、詞書の建久9(1198)年の大嘗会悠紀歌という状況から青羽山を近江とするものがある。しかし、青羽山の近江の中での詳細な場所については未詳・未勘とされている。宗祇国分に限らず同様の理由から「青羽山は近江」とする説が、江戸時代を生きた千賀璋の周囲にもあったことも考えられないことではない。天和2(1682)年版の八代集抄には式部大輔光範の歌に「宗祇国分に近江云々。若狭陸奥等に同名あり。然共(しかれども)大嘗会悠紀の国なれば此集の青羽山可為近江(おうみとなすべし)」と頭注があった。近江生まれの八代集抄作者北村季吟にも、歌枕としてはともかく、若狭の青葉山が知られていたことが読み取れる。また、近江生まれの教養人をして青羽山が近江にある根拠が500年近く前の宮中の儀式の和歌の詞書しかなかったようにも読める。北村季吟の見た宗祇国分も青羽山を近江としているらしいのが気にかかる。宗祇国分とは名所方角抄のことではないのだろうか。「云々」とは宗祇国分を確認せずに「宗祇国分に近江で入っている」と聞いて書いたということなのだろうか。

 また、この光範の歌の詞書が、建久悠紀(悠紀国は近江)でなく元暦主基(主基国は丹波)とする新古今和歌集の異本がある。この新古今和歌集の藤原光範の歌について、後藤重郎(1968)は勅撰集に共通する御世を寿ぐ目的や歌の配列、後鳥羽院親撰という新古今和歌集の体裁その他から後鳥羽天皇の元暦大嘗会和歌ではなく建久9(1198)年の土御門天皇大嘗会悠紀歌(近江)ではないかとしているが、新古今和歌集の写本によっては詞書を建久9(1198)年の土御門天皇大嘗会悠紀歌や後鳥羽天皇元暦元(1184)年の大嘗会主基歌ばかりでなく、建久9年の主基歌(主基国は備中)や元暦元年の悠紀歌(歌者は藤原季経)にしているものもあるという。丹後と若狭の境の青葉山なのに、八雲御抄に「丹波境か」と書かれていることに関して、写した者の間違いであろうと牧田近俊(若狭郡県志)や板屋一助(稚狭考)が指摘しているが、順徳天皇に参照された新古今和歌集に元暦の主基歌となっていたものがあり、それに基づいて後鳥羽天皇の主基の国(=丹波)から青羽山が「丹波境歟(カ)」の記述につながったとも考えられるので、「写し間違い」とは言い切れないと考える。大嘗会和歌作者について八雲御抄の御精撰本では藤原光範を元暦の主基歌の作者としているが、御稿本では元暦・建久についての大嘗会和歌作者について書かれていなかった。八雲御抄御精撰本での建久悠紀の大嘗会和歌作者は宮内庁書陵部蔵「大嘗会悠紀主基詠歌」などの光範と異なり、資実である。

 中世の通常は残らなかった大嘗会和歌のために地名を集めた注進風土記が、元暦元年の悠紀(近江)の際は残されていた。大嘗会悠紀検校を務めた中山忠親の日記「山槐記」である。山槐記に挙げられた大嘗会で歌われる可能性のあった地名に青羽山はなかった。音羽山ならあった。近江の高島郡として挙げられている。滋賀県高島市音羽の南方の音羽山(滋賀郡高島郡郡界尾根上)と思われる。注進風土記の地名は使いまわされることがあると言う。様々な写本でバラバラになっている光範の歌の詞書と、元暦悠紀における近江国高島郡の音羽山の山槐記の記録から、十分な証拠があるとは言えないが藤原光範が建久の大嘗会に於いて近江の「音羽山」と注進された地名を「青羽山(あをばやま)」と詠み(読み)、それが更に歌としては優れていたので勅撰である新古今和歌集に選ばれていたのではないか、詞書を違える異本の数々は元になる資料の読み間違いで作られた歌だということを隠そうとしていたのではないかと考えてしまう。活字のなかった時代、読み間違いもあって当然である。

 八木意知男の「大嘗会和歌の世界」(1986)によると、元暦の山槐記との照合から注進風土記に記載がなくても過去に歌われた地名は大嘗会和歌に用いられることがあるとのことだが、神道大系に翻刻された大嘗会悠紀主基詠歌・大嘗会和歌部類には、元暦より前の大嘗会和歌で青羽山が歌われた歌は無いようだ(但し両書にも記載されなかった大嘗会和歌は多数ある)。「大嘗会和歌の世界」では丹波の大嘗会和歌と歌学書の歌枕について検討されており、丹後と丹波について様々な歌学書で混同が見られるとされているものの、代表的な歌学書である八雲御抄で「丹波境歟」とする青羽山については触れられていないようだ。

 大嘗会和歌を今に伝える史料の一つである大嘗会和歌部類は、或いはどこかで山槐記との整合が図られたものか、光範の歌を元暦の主基丹波の歌として「青羽の山」の部分を「音はの山」として伝えるが、歌学書で教科書的に書かれる枕詞である水鳥が青に掛からなくなり歌学的に、また、御世を寿ぐ賀性の「あおば(常緑)」と言う音が歌から消えて大嘗会和歌としてもどうかとなるのは察せられる(大嘗会和歌部類には挙げた歌の詞書の元号・国名が新古今和歌集と合っていない旨の原注がある)。藤原光範は歌学の常識に則って「青羽の山」で歌ったのではなかったか。藤原光範の私家集は無いのかと思ったが見当たらない。山槐記のような形で元暦主基国丹波と建久悠紀国近江などの注進地名が残されていないようなのが残念である。後藤重郎(1968)は光範の歌について「撰集の当初の形であったか否かは不明」としている。また、光範の歌の異伝について「単なる誤写に基づくものとは考え難く、記憶なり記録なり確たる拠るべきものがあって、それに基づいて改め記されたのではないかと考えられる」としている。新古今和歌集親撰の後鳥羽院にも認められたこととして、儀式の記録としての大嘗会和歌と文学としての新古今和歌集に入集した歌が詞書のような部分で異なっていても、それはそれで良いのかもしれない。

 稚狭考で板屋一助は「清輔の説には陸奥或は尾張とあり。」としている。尾張で歌われたと考えられる青羽の山の歌があったのだろうか。和歌初学抄で挙げられている尾張の山の名所は「おとぎゝの山」と「ふたむら山」であった。また、稚狭考には歌枕書の筆頭、能因歌枕に青葉山が入っていないことを不審とするような文面がある。能因歌枕に青葉山は載っていないが若狭の名所として「あをの山」は載っていた。歌枕「あをの山」について吉原栄徳(2008)は、地名では無いとしているが、始めの二音節の音が共通し、近くに青郷のある青葉山の別名或いは別表記が「あをの山」ということも考えられるのでないかと思う。「は」の脱字も考えられないか。しかしそろそろ追うのは止めようと思う。

参考文献
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(2010年12月31日上梓)