青葉山
高浜漁港から

青葉山
青郷小学校から

牛の背から
舞鶴方面を望む

今寺集落は
直下に見える

松尾寺境内

→/→↑
お菓子の青葉山@大次郎餅
@高浜町青
柚子餡
旧丹後街道沿いの
お店の中にも青葉山が
青葉山(東峰693m・西峰692m)
松尾道・今寺道・高野道・中山道・山名考・歌枕

 若狭(福井県)と丹後(京都府)の境の若狭湾に聳える山。東西から離れて眺めると非常に秀麗な姿である。しかし双耳峰なだけに南北方向から眺めると、少し間延びしてしまう。山麓には古刹がある。奈良時代から修行の場とされ1)、山頂周辺には修験道の行場跡のようなものが見られる。青葉山の山体を、内浦湾を火口とする古い火山の火口壁の一部だとする説あるようだ。地質図を見ているとそのような仮説もありかなという気がしてくる。かつては七本もの登山道があり、海岸から屹立する姿の良い山だけに、山当てや観天望気の対象として親しまれたのだろう。北側からの難波江道、神野道、内浦道は1970年代には既に廃道状態だったという。


★山名考

 青葉山とも青羽山とも書かれたという1)2)。青羽山と書かれる場合について板屋一助(1777)、上杉喜寿(1980)は和歌において水鳥と掛かる場合に用いられるようだとしている。千賀璋は向若録(1671)3)・若耶群談4)において青羽山と書き、樹林の茂る様子がマガモのオス(あおくび)の頭のようだからと説明している。しかし、8世紀に遡る由緒ある中山寺や松尾寺の山号が「青葉山」であり、青葉神社が青羽神社ではないことを考えると、これらの寺社の開山と同じ頃の万葉集の歌の中で「青羽」の字も用いられている5)が、地元では「青葉山」の字が用いられてきたことの方が多かったのではないかと思う。稲葉正義は若狭国志(1749)6)7)で鎌倉時代初期の八雲御抄の「青羽山」8)を引用しているが、そもそも八雲御抄は地誌書ではなく歌学書である。歌学は芸術であって実用本位の地名とは立ち位置が異なる。八雲御抄は青羽山を若狭としているが、歌学という芸術の基本的な技巧として水鳥(の羽根)と青を掛けるものがあり、その基本的技巧に則って「青羽山」と書いた著名な歌があったからである。現代に「青羽」が日常語として殆ど使われないのは、芸術としての感覚が普段使いには先鋭的に過ぎたと言うことだろう。八雲御抄の少し前の新古今和歌集に収められた藤原光範の歌に青羽山の文字があるが、この光範の歌の青羽山についてはその詞書から近江にあるとされる。

 山容が、大鷲が羽ばたいているように見えるから青羽山と呼ぶ解釈があるようだが、伊藤勇(1973)の「わかさ高浜史話」の青葉山の章にある「この秀峰も青郷地区より眺めると大きな鷲が羽ばたいているような極めて男性的な山となる。」という記述と、向若録などの「青羽山」と言う表記が組み合わされて生まれた解釈ではないかという気がする。古い資料に見たことが無い。

 近世において青羽山と書いた向若録・若耶群談の著者、千賀璋と若狭国志の著者、稲葉正義はいずれも地元の若狭・丹後の生まれ育ちではなく江戸から藩主に付き従って一時的に若狭に住んでいた人である。若狭国志も参考にしている、「青葉山」と書いた若狭群県志10)の著者牧田近俊は地元小浜藩の下士・郷土研究家である。向若録と同じ時期の若狭国伝記11)の著者については人物像が分かっていないようだが、青葉山と書いている。青葉山の条は独立して設けられていないが、ほぼ同時代の地元の人による若州管内寺社什物記12)や稚狭考1)や拾椎雑話13)、少し遅れてやはり地元の伴信友の和歌13)14)でも青葉山と書かれているのを見ると、千賀璋や稲葉正義にも青葉山を主として書いて欲しかった気はする。

 若州管内寺社什物記は目にしやすい寛文7(1667)年のものの他に万治2(1659)年のものがあるそうだが未見。上杉喜寿(1980)が引用した万治2年の文章を見る限りでは、青葉山に関する内容は寛文7年のものとほぼ同じようだ。

 近世の丹後側では、偽書「丹後風土記残欠」16)が「青葉山」と書いている。丹後風土記残欠は遺称地が見当たらず、和名類聚抄の室町中期の写本である大東急本と江戸時代の元和古活字本以降の刊本以外の史料に見られない田造・高橋を今の舞鶴市内のタナベ(田邊/田辺/田名部)・クラハシ(椋橋/倉梯/倉橋)と排反的に記すなど古風土記逸文とみなすには不審な点が多々見られ、明治の昔から偽書とされていた17)18)。作者についてはまだ不明のようだが、偽作としての成立時期や質の推定が進んでいる19)。丹後風土記残欠の内容を奈良時代の記録として信じるわけにはいかないが、江戸時代前期に丹後でも青葉山が神聖視の対象とされうるとした作者の心境は読み取っても良いのではないかと思う。丹後風土記残欠は明治以降も無批判に公刊されたことで手に取りやすく、古風土記の一部として書かれている内容が引用されることもあったが、利用には風土を伝えるのとは別の目的で江戸時代に作られた偽書としての注意を要する。

 加佐郡の名の由来は単に丹後分国前の丹波国の政治の中心地であったといわれる与謝郡や丹波発祥の丹波郡から見て都に近いことを言う「嵩(カサ)」だろう。意味は「上手」「上の方」であり、方言として全国的に残っている言葉で、関東では意味を取りやすいように「上サ」などと書いてカサと読ませている所もある。加佐には小地名の遺称地が見当たらない。笠は使う所で呼ぶなら「かさ」だとしても機能で呼ぶなら雨水等を受ける「うけ」となりそうだが、残欠の書くように青葉山西峰に笠津彦(うけつひこ)・笠津姫(うけつひめ)が祀られていたとしても、「うけつひこ」「うけつひめ」と呼ぶから「笠津彦」「笠津姫」と書かれたのであって、「笠津彦」「笠津姫」と書かれているから「うけつひこ」「うけつひめ」と呼ぶわけではない。同様に「かさ」と呼ぶから「訶沙」とも「加佐」とも「笠」とも書けるのであって、残欠が続けるように笠津彦・笠津姫の笠を読み間違えて笠(かさ)が郡名になるというのは、音より先に文字があり、普通なら順序が逆でおかしい。漢字の読み間違いから新しい地名が生まれることも皆無とはしないが、古風土記の頃の文字を使う人はごく少数である。少数の地名の読み方を間違えるような外部者の側が現在進行形で地元の名山に祀られている神の名を知って尊重しながら同根で同じ表記の広域地名の読みを誤ったままにして、文字を使わないその神を信奉する多数派が地名では読み誤りを認めると言うのは尋常でない。現存する古風土記や風土記逸文での地名由来は、神話や伝説的故事に洒落で託つけて支配のバックアップを狙う説の内容はともかく地名というものが音が先で用字が後という原理は一貫しており、この点でも丹後風土記残欠がかなり後世の偽書であることを疑わせる。限られた人しか文字を使っていなかった時代に当たり前であったことが、文字を使う人が増えて見えなくなってしまった人が残欠を作ったということだろう。昔の青葉山は、松尾のような西の麓まで若狭国分であったとみられていることも指摘しておきたい。

文献 若州管内寺社什物記 若狭国伝記 向若録 若耶群談 若狭郡県志 若狭国志 稚狭考
著者 (不明) 桜井曲全 千賀璋 千賀璋 牧田近俊 稲葉正義 板屋一助
成立年 1667
(1659)
寛文年間
(1661-72)
1671 1682
(遺稿)
1693 1749 1777
表記 弥山ヵ嶽之内
青葉山
青葉山
青葉ノ山
弥山
青羽山 青羽山
弥山
青葉山
青葉山
青羽山
弥山
青羽山
青葉山
青葉山
文献 丹後風土記残欠 丹後旧語集 丹後旧事記 丹後風土記 丹哥府志
著者 (不明) 磯田閑水 其白堂信佶 (不明) 小林玄章
小林之保
小林之原
成立年 1709-22 1735 天明年間
(1781-89)
寛政〜文化
(1800-16)
1841
表記 青葉山 青葉山 青葉山 青葉山
鳥羽山
青葉山

 青葉山という山名が、木々の葉が青々としているからとか、若狭湾の海が青いからなどと言う説明は論外である。新緑の木々の青葉ならどこの山林でも青く、常緑樹が多いのが目立つというなら青葉ではなく青木だろう。海が青いのも若狭湾だけではなく、バの音と海が繋がらない。

 吉田東伍(1940)23)24)による「青の里の端山」が有力なのではないかと考えていた。若狭国伝記の青葉山の条にある「愚按大飯郡青之郷」という注11)も、青郷(=青里)に青葉山の名が由来するのではないかと考えていることを言っているのではないかと思う。

 南山麓の高浜町青(あお)地区(松尾寺駅の東隣の青郷駅付近)はかつての阿遠(あを)郷の中の青の里の地と言われる25)。いわば阿遠郷発祥の地である。ここでの「青の里」の「里」とは国郡里制の里ではなく現代語での一般的な意味での「里」と捉える。ハヤマ信仰のある関東・東北からは離れているし、今でこそ日常会話では使われず固有名詞化している例が多いが、ハヤマは古語辞典にも載る古くからあった普通名詞であった。京の情景を詠んだ和歌でも現れる。ハの字は当時(奈良時代)、pa から fa のような音を表していた26)からアオバと濁るのも連濁として自然である。地名で用いられるアオと言う音には湿地を表していることがある27)28)という。現在の青郷駅周辺は河川改修されて水田が広がるが、沈水海岸である若狭湾に注ぐ小さな関屋川が運ぶ土砂で作られたこの平地には、人が住み始めた頃は、まだ潟湖の痕跡が多く残っていたのではなかろうか。青郷駅周辺は関屋川の平野の中では田より畑が多い。旧丹後街道が平野の中央南寄りを走り、街道に沿って古い町並みが続いている。等高線からは読み取れないが、関屋川の平野の中では水はけが良く、農耕を中心とした集落を構えるに適だったのではあるまいかと想像は膨らむ。青葉山が冬の日本海からの風「うらにし」29)を遮ることも当時から意識されていただろう。現在は水田になっている、周囲に広がる湿地が部族抗争時の守りに堅いと言うこともあっただろう。

 青の里の端山なら、青葉山/青羽山の漢字表記の書き分けには意味がなかった。万葉集は当初は万葉仮名で書かれていた。歌の意味に合わせて青葉山、青羽山と漢字が書き分けられただけだったのだろう。

 だが、青葉山は青郷の人も青葉山と呼んだだろうか。阿遠地区の端山だからと言って阿遠の人が阿遠端山と呼ぶだろうか。単に端山と呼ぶのではないだろうか。阿遠地区の名の元になった関谷川の湿地を指したアヲという地名が先にあったとしても、青葉山は関谷川との間に今寺や高野や中山といった一つの村が入るほどの居住適地を挟み、関谷川の湿地から完全に隣接しているとは言い難い。

 弥山弥山嶽御浅嶽(みせんだけ)とも呼ばれ2)、高く美しい姿を仏教の中の須弥山(シュミセン)に例えられたといわれる(若耶群談・若狭国志)。青葉山の南西約15kmには現在でも弥仙山(みせんさん)という別の山があり、これらの山の山争いの伝説もある。以弥山2)30)と伝えるものもあるが、漢文調で書かれた明治12(1879)年の内務省の指令に基づく若狭国神社明細帳31)の高野の青葉神社の条の「高山ナルヲ以弥山ト呼フ(こうざんなるをもってみせんとよぶ)」という一節への読み下しミスで、弥山のことと思われる。

 青葉山をアオバヤマと読むべきか、アオバサンと読む32)べきかでも議論があるようだ。国土地理院33)はアオバヤマとしている。しかし、奈良時代以降の青葉山における修験道の歴史や修験者と地元民の関わりを考えると、アオバサンと音訓混読や敬称を付けるように呼んで「山」と字をあてる呼び方には外部の者として安堵を感じる。木曽の御嶽山(オンタケサン)のような例もある。歴史の長い松尾寺の山号も音読みでセイヨウザンとは読まず音訓混読でアオバサンであり、寺の存在が現代より大きかったと言われる過去を思うと、山号としての青葉山と、山名としての青葉山が一体化していても、どちらが正しいと決めて良いものではない気がする。

 双子山挟山(はさみやま)の名は、そのまま双耳峰であることを示している。確かに舞鶴方面など東西の峰の軸からわずかに角度をずらして見ると鋏(はさみ)に見えやすい。青葉山は若狭富士とも呼ばれ、若狭のルーツと言う説もある31)34)。いつでも青葉(常緑樹)で若々しく見える挟(はさみ)状の山だからということのようだが、字の細かい違いを見ないことにしても、さすがにこれは寺子屋などで文字文化が庶民にまで普及してからの説明ではなかろうか。若狭の表記が現れる前は、若狭は若佐などと表記されていた。一方、反対側の丹後からは丹後富士とも呼ぶ(但し丹後富士は複数ある)。

 「双子山」、「挟山」と見た視点で「青葉山」の音を考えてみる。目立つ双耳峰で海に近い青葉山は、二つの峰の開き具合などで船の位置の特定などに山当てで使われただろう。双耳峰であることを言う、「アヒ(合)・ヲ(峰)」だったのが今より口を強く窄めていたヒを中心に「アゥボ」などを経て訛ったのが「アオバ」でなかったかと考える。 b と w には位置の近似から相通があり、常念岳の常念坊などの山名語尾のボウはヲ(峰)の転訛だろう。「あおばやま」は、更に「山」が付けられたものではなかったか。草津白根山の支峰「青葉山」は、本白根山と白根山の間にある一段低い逢ノ峰の尾根上の高まりである。間(あひ)にある峰である逢ノ峰の別称であった「アヒ(間)・ヲ(峰)・山」の訛ったのが逢ノ峰の一角に付けられているのではないか。


福島市中角から見た信夫山
左から羽山。薬師の峯、羽黒山、熊野山

 福島市内の信夫山は別名が青葉山で、地形図上では西側の羽山と薬師の峯の山体と東側の羽黒山と熊野山の山体を合わせた落花生のような山である。広い福島盆地内にポツンと孤立する小山なので端山とは言えず、「オホ(大)・ヲ(峰)」の転とも考えにくい。二つの小山が連なって見える「アヒ(合)・ヲ(峰)」かと思ったのだが、福島市内の南方から見てみると薬師の峯が羽山とは独立の小山と見え信夫山全体で三つコブの山に見えた。薬師の峯の名の「やくし」はその東側の落花生のくびれの鞍部の通り道の所の山ということ「ひよ(撓)・こし(越)」の転で、そこで二つの山がくっついていると見られたと言えそうな気もするが、三つコブに見えたので信夫山の別名の青葉山は「アヒ(合)・ヲ(峰)」とは言い切れない。

 屏風山とも呼ばれると言う2)。ハサミが開き切って、東西に間延びして見える状態を屏風と形容していると考えたいが、撓んだ吊り尾根のある「ひよ(撓)・を(峰)」の転が「びょうぶ」かも知れないとも思う。

 扶桑馬耳山の名は江戸時代に中国から日本に招かれた僧隠元も、その漢詩の中で青葉山を称えた36)と伝えられる名で、奈良時代の松尾寺開山の威光和尚によるという(隠元が若狭・丹後に来たかどうかは疑わしい)。扶桑は日本を意味し、馬耳山は双耳峰であることを示している。威光上人が故郷中国の馬耳山を思い出したように松尾寺のホームページにあるが、馬耳山もまた須弥山と同様に仏教用語であり、また、漢字文化圏ならどこにでも発生しそうな地名だけに威光和尚の命名と言う話も簡単には頷けない。中国の馬耳山は山東半島の付け根にあるが、威光上人は中国の馬耳山に縁があったのだろうか。だが、単に双耳峰である姿を指しての「うまのみみ」と言った呼び方が、何時の時代かに地元としてあったと言うことではなかろうか。松尾寺や中山寺の本尊が馬頭観音であることも扶桑馬耳山の呼び名と何か関連があるのではないかと言う見方37)もあるという。松尾寺などの僧が仏教用語としての馬耳山と須弥山が別のものを指していることを知らなかったとは思えないが、それでも扶桑馬耳山という伝来の呼び名があるのに、階層が馬耳山より上であるとは言え須弥山と例えての弥山という呼び名を定着させた点には疑問が残る。或いは青葉山をはじめとして諸国に見られる「弥山」は漢語の須弥山とは関わりなく、伯耆大山・烏ヶ山など中国山地の山で多く見られる山名語尾「セン」に、「御」で書かれることの多い接頭語とされる「ミ」が付いた、山を「お山」と呼ぶような「本当の」とか、美称を付けて呼んだ日本語の「ミ(御)・セン(山)」ではないのかとも考えてみる。「アオバサン」も元々「アヲバセン」と言った、山地としてのヲ(峰)に山頂一帯を指すセン(山)の、山を表す接尾語が二重に付いた呼び方があったのが山号と同一視されてアヲバサンになったのではないかとも考えてみる。センは迫り上がっている山頂などをいう「せり」の転ではないかと考えている。

 地名の中の「あお」は「おほ」の転が考えられるという。弥山という別称を考えるにアオバは「あひを」ではなく「みせり」とほぼ同義の「おほ(大)・を(峰)」の転かも知れないとも考えてみるが、双子山や挟山と言った双耳峰であることに注目した呼称に、挟山や双子山や扶桑馬耳山のような双耳峰のことを言っていたかもしれない呼称もあるということで、「あひを」の転がアオバと第一に考えておく。

 戦国時代の永禄12(1569)年に若狭丹後を旅した連歌師、里村(松村)紹巴はこの辺りを「松尾山」と記している38)。小浜での連歌で「青葉の山」を詠んでいる。小浜からも青葉山は望まれるが現在の青井山高成寺を青葉山高成寺と書いており、何か混乱している印象を受ける。貝原益軒も元禄2(1689)年の紀行文「己巳紀行」39)で高成寺の山号や裏山を青葉山と書き、現在の青葉山周辺では「松尾山」、「松の尾の山」と書いている。丹後側では松尾山(まつのおのやま)という呼び方もあったのだろうか(高成寺での「青葉山」だけでなく松尾に於いてすぐ上の青葉山に触れていない益軒の紀行文は同様の紹巴の紀行文を参考に創作されたような印象である)。板屋一助は稚狭考に「丹後より見ては何の見所もなき山なり」と書いたが、それはない。由良が岳や五老ヶ岳から見ても美しい山である。

 松尾寺の唐の威光上人による開山は慶雲5(708)年、加賀白山も開いた泰澄大師による中山寺の開山は養老元(717)年。どちらも日本に文字文化が根付き始めた頃だ。

参考文献
1)板屋一助,法本義弘,稚狭考,拾椎雑話・稚狭考,法本義弘,福井県郷土誌懇談会,1974.
2)上杉喜寿,越前若狭 山々のルーツ 復刻版,安田書店,1995.
3)千賀璋,向若録(若狭関係地誌7),福井県立図書館,1984.
4)千賀璋,杉原丈夫,若耶群談,越前若狭地誌叢書 下巻,杉原丈夫・松原信之,松見文庫,1973.
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7)稲葉正義,若狭国志,杉原丈夫,越前若狭地誌叢書 続巻,杉原丈夫,松見文庫,1977.
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11)桜井曲全子,若狭国伝記,越前若狭地誌叢書 下巻,杉原丈夫・松原信之,松見文庫,1973.
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20)其白堂新佶,丹後旧事記,丹後史料叢書 第一輯,永濱宇平・橋本信治郎・小室萬吉,丹後史料叢書刊行会,1927.
21)永濱宇平,丹後風土記,丹後史料叢書 第二輯,永濱宇平・橋本信治郎・小室萬吉,丹後史料叢書刊行会,1927.
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36)高浜町,高浜町誌,高浜町,1985.
37)丹後広域キャンペーン協議会,丹後新風土記,丹後広域キャンペーン協議会,2008.
38)里村紹巴,紹巴天橋立紀行,大日本史料 第十編之二,東京大学史料編纂所,東京大学出版会,1968.
39)貝原益軒,板坂耀子,己巳紀行,東路記 己巳紀行 西遊記(新日本古典文学大系29),板坂耀子・宗政五十緒,岩波書店,1991.
40)日本古典文学大辞典編集委員会,日本古典文学大辞典 一〜六,岩波書店,1983-1985.



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(2009年6月23日上梓 2010年2月6日改組分割 2018年3月7日改訂)