手前、赤岩山
奥、宇野ヶ岳
由良ヶ岳から
赤岩山(669m)・宇野ヶ岳(694m・697m)
大山(与謝の大山)・杉山

 歌枕の「与謝の大山」の二峰。和泉式部、光俊朝臣の歌で知られる。与謝はこれらの山の北側。上宮津杉と呼ばれる大きな杉が沢山生えている。

 大江山オフィオライトの一部、レンズ状の露出をする大江山超苦鉄質岩体からなり、文字通り赤い岩の露出する赤岩山の赤い岩の中心は深成岩の蛇紋岩である。この山頂付近の赤い岩の上は非常に展望が良く、もっと登られて良い山だと思う。山頂から北を望めば栗田湾と天橋立、西には青葉山をはじめとする若丹の山々、南には由良川の向こうに丹波の山々が広がる。

 宇野ヶ岳は宇野尾山とも言い、赤岩山と峰続きで標高は赤岩山より高いが山頂からの展望はそれほど無い。しかし山頂付近を横断する古道に稜線からわずかに北に入れば、天橋立が赤岩山からより大きく望まれる。また、尾根筋や稜線の北側には杉の大木が多く見られる。2009(平成21)年に赤岩山から宇野ヶ岳までの縦走路と、宮津市今福と舞鶴市西方寺を結ぶ古道が刈り分けられた。地形図上では西側には更に峰続きでもう一段高い杉山(697m)があるが、こちらには道が繋がっていないようだ。また、地形図上では杉山と宇野ヶ岳は別の山であるが、両者包含して杉山であり宇野ヶ岳であり、與謝の大山であるようだ。赤岩山は与謝の大山の中の一峰である。赤岩山は雨乞いの山だったと言う。修験の山で第二次大戦中まで女人禁制だったという。嘗ては上漆原からの道もあったようだが2011年現在では西方寺平・下見谷・今福からの三本の登山道がある。

 南山麓を走る岡田中バスは、この赤岩山から名を取って「あかいわ号」と言う愛称が付けられている。

  • 歩行日・・・2010年10月23日、2011年5月21日
  • 五万図・・・「大江山」、「宮津」
  • アプローチ・・・岡田中バス「あかいわ号」


山頂の岩

赤岩山荘

★山名考

 与謝の大山については最高峰千丈ヶ嶽を中心とする大江山とする説もある。地元丹後の小林玄章らによる宮津府志では(分担については不明)、名所与謝の大山について「橋立図記に普甲山の事とす 此説是なるべし」と書きつつ、「諸説多し」と保留をつけていた。小林玄章はその後も調査を続け、後年の丹哥府志では与謝の大山について「今 杉山といふ」と書いた。現在の杉山(宇野ヶ岳)である。宮津府志で論拠とする「橋立図記」とは京都柳枝軒から刊行されていた扶桑名勝図の内の丹後国天橋立之図の解説文のようだ。この解説文は「丹後与謝海名勝略記」と呼ばれる。丹後与謝海名勝略記の普甲山の条は「大山と云ふ名所也」とは書いているが「与謝の大山」とは書いていない。続く文章には現在の普甲峠付近の様子が述べられている。著者は匿名(ペンネーム)となっていて不明だが成相寺の僧が考えられると言う。

 宮津府志は更に古跡普甲山の条では「橋立記曰此山は大山といふ名所なり」と「丹後与謝海名勝略記」を引用している。橋立記とは橋立図記と同じで扶桑名勝図丹後国天橋立之図の解説文である。扶桑名勝図丹後国天橋立之図は貝原益軒と縁の深かった版元柳枝軒によって貝原益軒の撰・解説として計画されたが、貝原益軒の死後、何某かの事情で解説文や貝原益軒の撰と言うことが変更されたと見られると言う。貝原益軒は元禄2(1689)年に丹後を紀行し、紀行文は柳枝軒から死後(1713年)に諸州巡覧記「西北紀行」として出版されている。西北紀行は己巳紀行が元になっていると言う。西北紀行・己巳紀行では大山・与謝の大山については言及されていないようだ。丹後与謝海名勝略記のいう普甲山は現在の普甲峠附近のことのようである。峠道の情景が述べられており、ここが大山と言う名所でもあるという。

 其白堂新佶は丹後旧事記で与謝の大山について「普甲峠千丈嶽も皆此山の続なり」と書いた。当時の千丈嶽が現在の大江山最高峰である千丈ヶ嶽と一致するのかどうかよく分からないが、この文章からは千丈嶽と、与謝の大山は連なっていて別のピークとして捉えられているように読める。この20年ほど前に、福知山から江戸に移っていた北村継元は太邇波記で千丈嶽を「大山の西にあり」と記している。当時、丹後側だけでなく丹波側でも千丈嶽と大山は別の山と言う認識があったようだ。大江山と千丈ヶ嶽の歴史的な関係については登ってもいないし調べてもいないので、これ以上は立ち入らない。

 北村継元は「与謝の大山」について「後世いふ所の大山なるへし」と太邇波記で書いている。当時、大山と呼ばれていた山があったことを思わせる。また「与謝の大山」は既にどの山を指すのか不明瞭になっていたとも読める。北村継元のいう「大山」が現在のどの山を指しているのかが気にかかる。

 現代において普甲山とは地形図には山名が記載されていないが大江山と宇野尾山(杉山)に、細かく見れば今普甲道と元普甲道に挟まれた482m(三角点は471.1m)の山である。山頂附近に設置される三角点の名でもある。この普甲山は居並ぶ大江山や宇野尾山に比べると遥かに小さく、大山とは呼びにくい気がする。

 近代に入って吉田東伍は宮津府志を引いて与謝の大山を普甲山のこととしている。高頭式は日本名勝地誌を引いて普甲山のこととしている。野崎左文による日本名勝地誌では普甲山について、論拠は不明ながら和泉式部の歌の「与謝の大山は此の山なるべし」としている。「一名を大山又千歳嶺(たふげ)」とも書いており、大山と言う呼び方が一つのピークではなく、大江山や杉山を包含した越える「山地」としての呼び方であったのではないかと感じさせる。

 上宮津村史(1976)は杉山を与謝の大山とする。中嶋(1988)は与謝の大山を杉山とする説を有力としている。これらの主な論拠は丹後旧事記の書き方と丹哥府志の成立過程を踏まえたということではないかと思う。赤岩山・杉山は大江山(千丈ヶ嶽)に比べて天橋立から直線距離で四割ほど近く、宮津湾越しで指呼しやすいということもあるのかもしれない。光俊朝臣に「春霞たちわたるなり橋立や松原ごしの与佐の大山」という歌がある(夫木抄)。扶桑名勝図の丹後国天橋立之図では、千丈岳と普甲山が別の山塊として描かれて名が付され、与謝の大山とは名が振られていないが、普甲山と付される山の姿は緩やかな起伏で実際の杉山・赤岩山連山の姿に通じるものがある。一方、千丈岳は鋭鋒として描かれている。

 綱本(2005)は中嶋(1988)を踏まえた上で、杉山から「千丈ヶ嶽を最高峰として普甲山などの一連の峰々を古くは総称して与謝の大山と呼んだ」とする。北村継元の述べた無印「大山」についての検討が無いが、この論は大江山に関する論だから仕方ない。普甲峠には街道筋として歌を詠むような多くの人が通ったことから、歌枕としての与謝の大山を、杉山と赤岩山に限るより妥当だと思う。普甲峠・現代普甲山は千丈ヶ嶽・大江山連峰と杉山・赤岩山の中間に位置する。

 与謝は加悦谷の奥、大江山北麓の与謝地区が発祥であるから、「与謝の大山」の名が与謝地区から離れた宇野ヶ岳・赤岩山までを含む山塊を指しうるようになったのは与謝郡(評)が定められた七世紀以降のことなのだろう。北村継元が示唆したように「与謝の大山」と「大山」は別のもので、「与謝の大山(=普甲山)」は一つのピークではなく普甲峠を挟んで千丈ヶ嶽附近から赤岩山までの歌枕としての山塊の呼び方で、普甲峠の東側に位置する杉山・赤岩山の高まりは18世紀には「大山」と呼ばれ、19世紀以降は「杉山」と呼ばれたということではないかと思う。

 江戸時代の江戸幕府による大日本風土記の中の丹後国分、丹後風土記は普甲山の条で丹後与謝海名勝略記を引用しつつ赤岩嶽に別の条を立てているが説明は無い。

 宇野ヶ岳の名の元は、上宮津村の古地図にあった「卯尾」の字を見ると上宮津の小田村岩戸(がんど)から見て卯(東)の方角にある峰(を)と言うことではないかと考えてみた。岩戸から申(さる)の方向には猿馬場山がある。宇野ヶ岳よりは宇野尾山と言う表記の方が本来の形に近いと言うことだろうか。上宮津でも今福や喜多からでは卯ではなく巳である。西方寺平からでも卯の方角ではなく子の方角である。或いは東西に連なる高まりであることを言った「うね(畝)・を(峰)」の約が「うの」、転が「うのを」か。

地誌文献 上宮津村辛皮与大股村
山論裁許裏書絵図
橋立記
(丹後与謝海名勝略記)
宮津府志 太邇波記 丹後旧事記 丹後風土記
(大日本風土記)
丹哥府志
著者
(不明) 天野房成
指田武正
小林玄章
北村継元 其白堂新佶 (不明) 小林玄章
小林之保
小林之原
成立年 1688 1726 1763 1768 天明年間
(1781-89)
寛政〜文化
(1800-16)
1841
表記 卯尾

赤岩ヶ嶽
普甲山
=大山
與謝ノ大山
(=普甲山)
大山 與謝の大山
普甲峠千丈嶽も皆
此山の続なり
普甲山又北向嶺とも云ふ
大山と云ふ名所なり

赤岩嶽
與謝の大山今杉山という

赤岩
大山の東に又一峰あり赤岩といふ
現代各ピーク 与謝峠 赤石ヶ岳 千丈ヶ嶽 鳩ヶ峰 鍋塚 今普甲道 普甲山 元普甲道 杉山 宇野ヶ岳 赤岩山
現代山塊
大江山 普甲山 与謝の大山・杉山
18世紀山塊
(歌枕として)

大山(与謝の大山)
18世紀山塊
(地元)

千丈ヶ嶽 普甲峠・普甲山 大山
19世紀山塊
杉山

参考文献
高須晃,大江山オフィオライト,日本地方地質誌5 近畿地方,日本地質学会,朝倉書店,2009.
貝原益軒,永濱宇平,丹後与謝海陸名勝略記,丹後史料叢書 第一輯,永濱宇平・橋本信治郎・小室萬吉,丹後史料叢書刊行会,1927.
貝原益軒,板坂耀子,己巳紀行,東路記 己巳紀行 西遊記(新日本古典文学大系98),板坂耀子・宗政五十緒,岩波書店,1991.
貝原益軒,西北紀行,諸州巡覧記,益軒全集 巻之七,益軒会,国書刊行会,1973.
川平敏文・勝又基,『扶桑名勝図』考 ―九大本を中心に―,pp16-30,36,文献探究,文献探究の会,1998.
板坂耀子,貝原益軒紀行,日本古典文学大辞典,第一巻,日本古典文学大辞典編集委員会,岩波書店,1983.
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伊藤太,雪舟の「視点」、中嶋利雄氏の視点 ―私の解釈をめぐって―,中嶋利雄著作集 天橋立篇,中嶋利雄著作集刊行会,あまのはしだて出版,2002.
北村継元,友繁康男,太邇波記,福知山市史 史料編 三,福知山市史編さん委員会,福知山市役所,1990.
其白堂信佶,小松國康・永濱宇平,丹後旧事記,丹後史料叢書 第一輯,永濱宇平・橋本信治郎・小室萬吉,丹後史料叢書刊行会,1927.
永濱宇平,丹後風土記,丹後史料叢書 第二輯,永濱宇平・橋本信治郎・小室萬吉,丹後史料叢書刊行会,1927.
小林玄章・小林之保・小林之原,永濱宇平,丹哥府志,丹後郷土史料集 第一輯,永濱宇平,龍燈社出版部,1938.
吉田東伍,増補 大日本地名辞書 3巻 中国四国,冨山房,1970.
高頭式,日本山嶽志,博文館,1906.
野崎左文,日本名勝地誌 第七編 北陸道山陰道,博文館,1896.
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岩崎英精,上宮津村史,宮津市上宮津自治連合会,1976.
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宮津市史編さん委員会,宮津市史 絵図編(解説),宮津市役所,2005.
のんびりぶらぶらマップ作成グループ,丹後広域キャンペーン協議会,加佐ふるさと塾ガイドの会,ネイチャーマップ-赤岩山<<丹後歩き観光情報サイトのんびりぶらぶらホームページ
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広川治・黒田和男,五万分一地質図幅「宮津」,地質調査所,1960.



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(2010年12月31日上梓 2011年5月21日分割)