大函通過地図

 大島亮吉の「石狩岳より石狩川に沿うて」の1920(大正9)年の故事に因んで大函の通過を試みた。夏場に展望台から見た大函は底の見えない白い濁流が渦巻き、例え浅かったとしても恐ろしくて歩くことは出来そうになかった。それに観光客の目もあり恥ずかしい。冬は水量が少なくなるという話を聞き、売店も閉まり人気のない晩秋に訪れた。


 大島亮吉と同じように上流から下流へ下っていきたかったが、沢から上がった後に、なるべく濡れた状態で低温の外に居たくないので、すぐ車に逃げ込めるように下流側から上流へ遡行することにした。後から考えたら売店のある駐車場でなく大函の下流側でも車を停めておくことは出来たような気もする。

 大函トンネルをくぐり、大函橋から入渓する。水面に下りるには、うっすらと雪の積もった材木のような溶結凝灰岩の瓦礫を跳んで越えていく。水面に下り立つと生臭い臭いが鼻につく。すぐ上流の本流ダムで死んだ水が流れているのだ。水は夏のように白濁はしていないが、掬ってみると緑がかっている。はっきり言って汚い。

 それでも夏と違い、川底は水面から見通せる。全部ゴロ石だ。河原は少なく両岸切り立った絶壁だが、時折太モモほどの深さの所もあるけれど、殆どスネ程度だ。川底の石の間や表面には泥が積もっていて、踏んでもジャリッと動かない。右岸から滝となって二本の沢が合流しているが、この日は雪は舞っているものの11月下旬にしては比較的暖かく、一旦凍った滝が融けかかった状態であまりきれいでなかった。この氷瀑の写真を撮ろうと期待していたが当てが外れた。

 絶壁の溶結凝灰岩は乾燥した埃っぽい苔で覆われていて、レンズ状の軽石などは見えない。埃っぽいのでどうもきれいな感じがしない。最後に段差のある瀬を横断して展望台に着き、遡行は終了した。

 車に戻ったら層雲峡「黒岳の湯」に直行である。

 松本十郎の1876(明治9)年の石狩十勝両河記行にある「ヒホネシリ」は、その描写から大函のことをアイヌ語で言ったものと思われる。「ピポネシリ」か。但し、松本十郎らは大函の中を通過したのではなく脇の山から大函を越えたようである。また、1874(明治7)年にはアメリカ人技師ライマンが渇水と言うことで、裸になってアイヌの人二人に両手を取られて恐がって通過したらしいことをアイヌの人に聞いたことが記されている。松本十郎に同行したアイヌの人は大函を「御箱」とも呼んでいたようだが、これが本当に日本語なのか、アイヌ語でのヒホネシリの別名なのか、どうもこの記行文では判然としない。石狩十勝両河記行にある山間部の地名はヒホネシリを始めとして現代に伝わっていないものが、かなりあるように思われる。

 ヒホネシリはピポネシリで、大函が細長い溝のようになっている様を言った、cip o- ne sir[舟(状の細長い窪み)・その尻・である・断崖]の転訛ではないかと考えてみる。アイヌ語では car par のように c と p に相通があるようである。或いは cip ne sir か。また、sir は「辺り」と訳すべきか。

 山田秀三(1984)は大函の「函」を日本語として扱っている。また、1898(明治31)年の五万図には大函の処にシュオニセイとあるとし、「shuop-nisey 函の・絶壁」の意としている。

参考文献
大島亮吉,石狩岳より石狩川に沿うて,大島亮吉全集1 紀行,本郷常幸・安川茂雄,あかね書房,1969.
松本十郎,石狩十勝両河記行,日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌(北辺篇),高倉新一郎,三一書房,1973.
知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1992.
山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.



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(2004年3月18日上梓 2017年5月3日加筆)