小幌駅周辺アイヌ語地名考 その2(ピリカ浜からエサマニカルとエサマニ)

小幌海岸の地図1小幌海岸の地図2

ピリカ/パロキオナィ


ピリカ浜

大正頃の五万図:美利加濱
私見:par -ke[口・の所]/par -ke o nay[口・の所・にある・河谷]

 ピリカという音から考えるにしても、ここの場合はピカ(pirka)の訳は「美しい」ではないだろう。個人的印象だが美しいだけならオアラピヌイの方が美しい。荒天を避けるに「良い」湾か、この付近では珍しく砂地の浜辺なので船をあげやすい湾(もの)、荒天で船を緊急に上げるに「良い」湾ではなかったかと考えていた。

 礼文華から静狩の小幌海岸でパラケナイ、パラキオナイという音のアイヌ語地名を記す近世・明治の資料があるが、どこを指しているのか分からなかった。また、そのままピリカになりそうな明治以前に記録されたアイヌ語地名が礼文華小幌海岸で管見になかった。ピリカの音とはずいぶん違う印象を受けるが、パラケナイ・パラキオナイの最初の三文字の音の子音がピリカと同じなので関連がないか調べてみた。

 パラケナイなどの地名の出典は以下のようにある。

 地名アイヌ語小辞典の補遺にpara-kiでダニとする項があるが、ダニが特別多い沢などあるのだろうか。マダニは北海道のどこの藪でもいる。森一馬他の「罕有日記」によると岩屋観音から十四五丁でヒカウシタラケナイの岬までの間に「ハラケナイの出崎」があったとされるが、ハラケナイの位置が北海道蝦夷語地名解(永田地名解)の配列から推測される位置と異なっている。永田地名解では東の方のポロナイ(小幌駅のある沢筋)から順に挙げると、エサマニカルー、オアラピヌイ、プヨヌリ、ピカウシ、ト゜カルンポール、エルエトゥフ、ポンモイ、イメウシュモイ、パロキナイ、シット゜カリと並んでいて、ピカウスより西で静狩の手前かと思われる。

 また、松浦武四郎は安政4年と5年に聞き書きで礼文華・小幌海岸の地名を東の方からと思われるように記している。安政4年にはホロナイ(小幌駅のある沢筋)から、エヤルヒ子・ヒイカウシ・ハスケヲヽナイ(ハラケヲーナイか?)・イメクシモイ・ホンモイ・シツカリの順に、安政5年にはイワヤ(岩屋観音の所)から、イルモ・トカリウシホロ・バラキヲナイ・イメキヲナイ(イメキシナイか?)・シヅカリの順に記しており、これらも永田地名解の配列から思われる順とは異なっている。

 罕有日記ではケイホロイから十四五丁で「ハラケナイの出崎」とのことだが、小幌洞窟沖から海上を十四五丁(約1.5〜1.6km)西に行った所はプヨヌプリの出崎は通り過ぎて(約0.9km)、エルエトゥフ(鼠の鼻)には届かず(約2.3km)、ピゥカウの沖ではあるのだが出崎のない所でどうもよく分からない。

 場所がはっきりしないが永田地名解で考えられるエリアから、これらの音になるアイヌ語で表現されそうな地形を地形図上で探してみる。記録は語尾を「ナイ」と書いているので河谷に注目する。静狩とイメウシュモイと思しき湾の間には三本の大きな谷筋がある。この内、一番西側の静狩川を渡ってすぐの谷筋と、静狩から室蘭本線上り線の第一静狩トンネルがくぐっている出崎を越えた所にある谷筋は分水嶺の同じ鞍部に突き上げており、鞍部の標高は210m強と、国道の静狩トンネル上の静狩峠の鞍部の200m強と大差ない。静狩から歩いて来馬川上流域へ向かうなら、静狩峠を越えるより傾斜は多少きついがこれらの沢を登った方が距離が半分ほどになるので早そうだ。未踏査だがGoogleEarthなどの空中写真を見ると第一静狩トンネルの出崎は崖が海中に突き出していて歩いて回り込めそうにない感じがする。一番西側の静狩川河口からすぐに登る谷筋が来馬川流域への入り「口(par)」で、来馬川流域「の口」の所にある河谷ということで、paro -ke o nay[その口・の所・にある・河谷]ではなかったかと考えてみる。明治24年の北海道実測切図には、この沢筋の左岸の尾根に礼文華山道が描かれている。尾根末端は海崖なので静狩側の入口はこの沢筋だっただろう。三本目の一番東側の谷筋は標高が240m強とやや高く、来馬川流域に出るにしても遠回りとなり、崖が続く海岸伝いで静狩から行くのが簡単とも思えない。「口」を概念形のparとして考えると、表記上は「パケオナィ」となるが、paにアクセントが来ることになり、raにアクセントがあるparaki[ダニ]に付会されにくくなるように思われる。所属形のparoだと、roにアクセントがある。

 だが、静狩川河口すぐから登る谷筋がparo -ke o nayだとすると、位置が怪しいにしても「ハラケナイの出崎」や松浦武四郎に教えた人の印象より西に寄り過ぎている感じがする。静狩にこれだけ近いと、それなりに人の住んでいる静狩の地名として夙にもっと知られているように思われる。

 舟で海上を行った記録である罕有日記の「ハラケナイの出崎」をプヨヌプリの岬と考えることは、自身で歩いたわけではない船上でのアバウトな印象での記述なのでギリギリ考えられそうな気がする(但し、罕有日記のレフンケ〜シツカリの舟行での他の区間の里程は、続くハラケナイの出崎からヒカウシタラケナイの岬の区間など一部が書かれていないが、わりと正確である。書かれている中ではケイホロイ〜ハラケナイの出崎だけがよく分からない値である)。プヨヌプリのすぐ東側がピリカ浜である。大正頃の地形図には美利加濱から現在の小幌橋西詰付近へ沢筋で上がる道が描かれており、比較的新しい地図上のこととはいえ美利加濱もparo -keであり、そこの谷筋がparo -ke o nayと呼ばれうる条件を満たす。山田秀三(1984)の「北海道の地名」には、小幌海岸のピリカ浜は入っていないが六ヶ所のピリカから始まる地名が挙げられ、いずれも「口」とは関連づけられていない。だが、その六ヶ所ともpar -ke、或いはparo -keの存在が疑われる。

 数が少ないので四ヶ所とも書いてみると、稚内の宗谷の港は松浦武四郎が安政3年に「本名はヒリカトマリなるべし・・・如何なる風波にも障ることなしと」と書いて、そこに注ぐ宗谷川を永田地名解などが「パラキオナイ」と書いている。本別の美里別川は松浦武四郎が安政5年に「本名はヒリカヘツ」と書き、永田地名解が「ピリカアンペノ略語ナリトアイヌ云フ」と書いているが、利別川の美里別川の落ち口のすぐ対岸で本別大坂を登ると楽に浦幌川流域に入れるので、ヒリカヘツはpar -ke o pet、ピリカアンペとはpar -ke e-(/o-) an pe、美里別そのものもpar o petかもしれないと考えられる。後志利別川支流のピリカベツ川は落ち口のすぐ東が内浦湾に抜ける美利河峠で、川がpar -ke o pet、峠がpar -keであったかと考えられる。瀬棚の虻羅(あぶら)は松浦武四郎が安政3年に「夷言はヒリカトマリと云」として、すぐ南隣の嗣内川を「チユワシナイ(チュクシナイか)」として虻羅の北隣の「シマウタ川(島歌川)え下る道有と聞。地名は道有と云事のよし也」としているので、嗣内川がci- kus nay[(中相形形成の接頭辞)・通る・河谷]で、apa[出入口]を通って島歌川に下り、apaの辺りで左手に見る海側の所をアパオapa or[出入口・の所]と言ったのが虻羅であり、apa[出入口]のことをほぼ同義のpar[口]とも言っており、parの辺りの海岸の澗をpar -ke o tomariと言ったのがヒリカトマリではなかったかと考えられる。神恵内のキナウシ川/キナウシ岬の辺りは松浦武四郎の安政3年の記録で「ヒリカキナウシ 岩岬」と書かれているが、キナウシ川はキナウシ岬のすぐ南の奥まった湾の奥に位置している。この湾の入口がpar -keではないかという気がする。キナウシ川の河口がpar -ke o kenas[口・の所・にある・山がひっこんでいて低い木が生えている所]だったのではないかという気がする。知床羅臼側のモイレウシ湾は永田地名解が「『ピリカトマリ』ト同ジ」と書いたが、やはり湾口の狭い奥まった湾である。

 但し後半の三つは始めの三ヶ所に比べるとpar -keを疑うにしても発祥の場所やアイヌの人が本当に呼んでいたかが怪しい。永田地名解には更に多くのピリカで始まる地名が記されており、中には本当にpirkaである場所や、別の音の転訛もあったかと思う。

 アイヌ語のpirkaに付会されることが多いようなのでアクセントの位置からparo -keではなくpar -keであったかと考えてみたが、宗谷のヒリカトマリはパラキオナイのダニの伝承もあるので、或いは小幌海岸のピリカ浜もparo -keではなくpar -keということも考えられるのか。判断が付かない。また、美里別川の少し下流で利別川に合流する美蘭別川は、松浦武四郎の安政5年の記録にヒロヽとあり、美里別川同様に落ち口のすぐ対岸の斜面を登ると十弗川流域へ抜けられるpar or[口・の所]であり、ビランベツという音はpar or un pet[口・の所・につく・川]の転訛であったと考える。「きろろ」と言う音の、本別大坂を挟んでいる本別町の嫌侶と浦幌町の貴老路も、大部音が違う感じがするが、par orの転訛なのだろう。日本語でも日高見川が北上川になるようなp とk の音の相通は音感の近似から知られている。美里別川の落ち口と嫌侶の間で利別川に合流する本別町の名の発祥である本別川の名もparと無縁とは思えない。pon pet[小さい・川]と言われているが、相応の大川である。パンヌペッpar -nu pet[口・がある・川]或いはパンネペッpar ne pet[口・である・川]の転訛であったと考える。

 永田地名解には、小幌海岸のパロキナイの他に、パラキで始まる地名が宗谷川を含めて六ヶ所挙げられ、いずれもダニに関係する地名とされている。まだ十分検討していないが、その内の室蘭母恋のパラキナイのパラキは、緩やかで直線的な沢筋と標高の低い源頭と源頭を越えた所から海までに崖がなさそうであることから、白鳥湾から太平洋側へ出るparo -keではないかと思われる。後半のナイの前に動詞のoの音が丸められているとも考えられるが、或いはナイはne -iの転訛かもしれないとも考えてみる。

 ピリカはpar -ke[口・の所]で、ハラケナイの出崎はプヨヌプリの出崎であったと考える。ピリカ浜の北側の谷筋がpar -ke o nay[口・の所・にある・河谷]と考える。但し、概念形のparではなく所属形のparoで来馬川流域への入口であることをはっきり言っていたかもしれないが判断が付かない。


オアピヌイ

菅江真澄(蝦夷廼天布利):アルベヌヰ
今井八九郎(北海道測量原図):ヲアリヒヌ(ホロナヱのすぐ西で、ピリカ浜の東端付近に振られる)
松浦武四郎(蝦夷日誌):ヲハヒヌ・・・少し過而ホロナイ・・・
松浦武四郎(廻浦日記):ヲアリヒヌ
松浦武四郎(巳手控):エヤルヒ子
永田方正:オアラピヌイ 一面ニ石アル処 此処黒キ小石甚ダ多シ
私見:oar(ar) pi-nu -i[片方に・石・を持つ(/がある)・もの]

 北海道測量原図での位置と、蝦夷日誌でのホロナイまで「少し」、永田地名解の地名の配列(但し上のパロキナイのように順序がおかしいこともある)から、この風光明媚な立岩がオアラピヌイと考える。

 「黒キ小石甚ダ多シ」という永田地名解だが、カマナタモイの海岸もポロナイの海岸もピカウスの海岸も同じような黒い小石が多く、この説明では地形を表せていない気がする。小石の数だけなら面積の広い文太郎浜の方がこの小さな入り江より多そうだ。

 アイヌ語のnuは名詞では「豊漁」といった意味があるが、接尾辞-nuで名詞に接尾して「〜がある」「〜をもつ」と言った自動詞を作る。この立岩は集塊岩であり小石を多く含んでいるので、浜辺の小石ではなくこの立岩の様子を指しての石を持っているという表現ではないかと考えた。更にこの立岩をよく見ると、南側は角礫の飛び出た岩が剥き出しであるのに対して、北側は草木が生えている。アイヌ語のoar/arには副詞・連体詞として「全く」「全然」と言った意味の他に、「片方の」と言った意味もある。「片側に石を持つもの」がアイヌ語の名の意味であったと考える。

 当初は釣り情報誌の小幌海岸が釣りスポットであるとの記事から、ヌの音をアイヌ語のnu[豊漁]で捉えるべきかと考えていたが、piとの関連が付けられなかった。また、紹介されている釣りスポットはこの立岩以外なのに他にnuの付く地名が無いことにも説明が付けられなかった。豊漁かどうかは漁をしてみないと分からず、漁獲が変化することもありうるが、片側に石を持つと言う地形は一目見れば了解が付き、そう簡単には変化しない。


エサマニ・エサマニカル拡大地図

エサマニカルとエサマニ

永田方正:エサマニカルー 獺路 獺ノ通行スル道
私見:〔e- sama -n -i〕 ika ru[その頭・そのそば・(位置名詞語根に接続して、その方向へ移動することを表す自動詞をつくる接尾辞)・所(岬)・を越える・道]

 小幌駅からピリカ浜方面へ下りる道である。アイヌ語のエサマンには獺の意味がある。それを受けて永田解を考えればesaman ika ru[獺・通る・道]となりそうだが、海産の豊かな海域だけに昔はこの辺りに獺が生息していたとも考えられなくもない気がするが、獺が通るのが特にここだったとは考えにくい。他動詞としてのikaは、アイヌ語沙流方言辞典では「〜を越えて近道して行く」とされ、萱野茂のアイヌ語辞典の用例では「を越える」と考えても良さそうな感じである。

様似町のエンルム岬

 永田地名解では「ポロナイ エサマニカルー オアラピヌイ」の順に記述されているが、ポロナイとオアラピヌイは切り立った細い尾根一つで隣接した非常に近い地点である。この尾根は小幌駅からピリカ浜へ下りる道が山の斜面から離れる先で顕著な細尾根となり、その先は海に沈む直前で西側へ鉤型に90度、両辺30mで曲がっている。この岬を越える道と考える。

 山田秀三(1984)は日高の様似の語源について、様似川の姿として「saman-i 横になっている・もの」ではないかとしている。これの類推からポロナイとオアラピヌイの間の岬の姿がe- samanであり、この岬を指してe- saman -i[その頭・横になっている・する所]と言ったかと考えてみた。

 ここの岬や様似同様にエサマニ・サマニが語源として伝わる雄冬海岸北部(歩古丹とカムイエト岬の間)のイシャマニトマリについて、松浦武四郎は安政4年のアイヌの人への聞き取りで獺とも書きつつも「一説に置きより見る時は無と云事也」と書いている。岬の鼻が曲がっていて停泊地(トマリ)が隠れて沖から見えないと言うことでないかと思う(アイヌ語ではサ行音とシャ行音は区別されない)。また、似た音を含むイシヤマニルヲマナイが今の雄冬市街地付近で記されている。永田地名解でエサマンルオマナイとあるもので、西に突き出して北に折れているヒカタトマリ(ヒカタは日方で日本語由来で、凡そ南風を指す。トマリも泊で日本語由来で、南風の時に留まる停泊地を指す。雄冬港は北に口が開いているので南風の時に浪が入らない)といわれた昔の雄冬港を形成していた岬のような自然地形もまた、エサマニと呼ばれていたと考える。イシヤマニルヲマナイは〔e- sama -n -i〕 or oma nay[エサマニ・の所・にある・河谷]であろう。

 やはり獺の伝わる様似町のランドマークで、且つ良い停泊地を形作るエンルム岬も先が約90度曲がっている。松浦武四郎の残した安政5(1858)年の記録にも獺が川口へ流れ寄ったことでシヤマニの地名としたように伝えられているとあるが、伝説上のエシヤマニが様似川のことだったとするとアイヌの考え方では川の頭とは川の上流のことであるから、上流の流れ方を見なければならない。様似川は中流で横向きに流れを変えているが、その上流には二股があって両股がそれぞれまた横に向きを変え、右股は後戻りとでも言うべき流れ方であり、左股は下流域での向きに近い。様似川の川尻が横に流れているように山田秀三(1984)が言及しているが、河口は川の頭ではなく尻であるからエシャマニではなくオシャマニであり、獺の伝説は生まれようが無い。松浦武四郎は弘化2(1845)年の初航蝦夷日誌ではエンルム岬をシヤマニ岬とし、西からエンルム岬の裏山を越えて様似川の手前でヱシヤマニと記しているが、様似川河口とエンルム岬の付け根の距離は600m程度である。様似川流域のアイヌの人をエンルムに移して様似場所と称したようだと永田地名解にあり、移されたアイヌの人が水の得やすい様似川河口付近にエンルム岬の別名であったエシャマニを称して住んで、エンルムにあるエシャマニの名を受けた様似場所の仕事に従事していたのではなかっただろうかと考えてみる。カワウソ状の生き物様似の発祥は後に根元に会所も設けられた、レブヌカルベとも呼ばれたエンルム岬は幾つも名があり、先が横になっている形状を指すエサマニでもあったのではないだろうか。和人として始めに交易の為に定期的に訪れていた松前藩家臣は船で訪れていたのだから、砂浜のそれほど深くない様似川河口に船を入れるよりはある程度の深さと風除けが期待できるエンルム岬の脇に船を入れ、エンルム岬の名を場所の名前として採用したと考える。獺の矢状断面もまた頭部が下がって首が曲がり、この形である。

 山田秀三(1984)は様似のサマニと言う音をsaman-iと解したが、アイヌ語辞典でsaman[横になっている]という単語が見た事がない。古いアイヌ語辞典にはあったのかもしれないが確認していない。e- sama -n -i[その頭・そのそば・(位置名詞語根に接続して、その方向へ移動することを表す自動詞をつくる接尾辞)・する所]、「その頭がそのそばの方に行く所」で、「頭が横になっている岬」を指したのでないかと考える。新しいアイヌ語辞典に従って山田秀三(1984)のsamansama -nと考える。本体のそば(sama)に行く(-n)で「横になっている」というニュアンスとなっていたと考える。この岬は切り立っており、海岸通しで移動するのは大潮の引き潮の時でなければ困難である。その岬エサマニと、大潮以外の時にこの岬を越えて行く為の道がエサマニカルであったと考える。日高の様似の音は「e-」が略されたか落ちたもので、津軽一統志にある「しやはにう」は現代仮名遣いで書けば「しゃばにう」で、〔sama -n -i〕 o (-i)[そのそば・(位置名詞語根に接続して、その方向へ移動することを表す自動詞をつくる接尾辞)・する所・そこにある・する所]で、様似のエンルム岬一帯を漠然と指したものでは無かったか。記録した日本語話者側の耳にはb とm の音に相通が見られる。


その3(ポロナイからヌプキオチ)

参考文献
1)大日本帝国陸地測量部,5万地形図「辨辺」図幅,大日本帝国陸地測量部,1930.
2)知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1984.
3)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
4)森一馬・高井佐藤太,罕有日記 巻七,1857.(函館市中央図書館蔵写本)
5)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
6)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
7)北海道庁地理課,北海道実測切図「寿都」図幅,北海道庁,1891.
8)田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
9)山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
10)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 上,北海道出版企画センター,1978.
11)松浦武四郎,秋葉實,戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌 下,北海道出版企画センター,1985.
12)金田一京助,増補 國語音韻論,刀江書院,1935.
13)知里真志保,アイヌ語入門,北海道出版企画センター,2004.
14)菅江真澄,内田武志・宮本常一,菅江真澄全集 第2巻,未来社,1971.
15)今井八九郎,北海道測量原図(東蝦夷地),東京国立博物館蔵デジタルコンテンツ
16)松浦武四郎,吉田武三,三航蝦夷日誌 上,吉川弘文館,1970.
17)斎藤豊,噴火湾の秘境 小幌海岸の釣り,pp52-54,24(11),北海道のつり,水交社,1994.
18)斎藤豊,噴火湾の秘境 小幌海岸の釣り その2,pp61-64,25(12),北海道のつり,水交社,1995.
19)萱野茂,萱野茂のアイヌ語辞典,三省堂,1996.
20)松浦武四郎,秋葉實,丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 上,北海道出版企画センター,1982.
21)最上徳内,須藤十郎,蝦夷草紙,MBC21,1994.
22)津軽一統志,新北海道史 第7巻 史料1,北海道,北海道,1969.



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(2009年4月16日上梓(親頁から分割) 2017年4月23日その1〜4に再編・改訂)