小幌駅周辺アイヌ語地名考 その1(静狩からプヨヌプリ)

小幌海岸の地図1小幌海岸の地図2

シットゥカリ

sittukarisir tukari[山・の手前]

 静狩。平野がここより東で切れていることに由来するとされる。伊能図・道庁20万図等によると、旧静狩峠は今の静狩峠の場所と違い、静狩川の河口から直に山に入って来馬川流域へ越えていたようである。


イメクモィ(未踏査)

今井八九郎(北海道測量原図):イメクシモ(シツカリのすぐ東に記す)
松浦武四郎(蝦夷日誌):イメクシモ 壁立数十丈也
市川十郎(野作東部日記):射目串母(イメクシモ)ト云ル断裁シタル如キ岩山
松浦武四郎(廻浦日記):イメクシモ
松浦武四郎(巳手控):イメクシモイ
松浦武四郎(午手控):イメキヲナイ 物を分けると云う事也。昔し物を分て喰しと云事
永田方正:イメ ウシュ モイ 分配湾 昔土人狢捕リテ分配シタル湾ナリト云フ
私見:ru mak us moy[道・の後ろ・につく・湾]?

 静狩と、下記のポンモィの間にある顕著な大きな湾のことと思われる。

 池田実(2005)は、当湾をポンモイとしているが、この湾は小さく(pon)なく、蝦夷日誌は舟行でシヅカリ〜イメクシモを「七八丁」としてイメクシモ〜イルモ岩を「四五丁」としており、巳手控ではイメクシモイとホンモイを別に記しているので、当湾がポンモイとは考えにくい。蝦夷日誌に載せられる蝦夷行程記ではシズカリ〜イメクシモが六丁十間、イメクシモ〜イルモ岩サキが五丁五十間となっている。

 「分配」とは和人とは別にアイヌの部族同士でここを領土境界としたこともあったかなどと考えてみたが、imekは松浦武四郎や永田方正が書いているように特に食料を分ける時に使われるようである。或いはi- mak us moy[それ・の後ろ・につく・湾]かと考えてみるが、位置名詞makの前にi-が付いた地名の例を見ず、「それ」が何だか不分明である。e- mak us moy[その頭・後ろ・につく・湾]かとも考えてみるが、「湾の頭」とは、湾のどの辺りにあたるのか分からないし、「湾の頭」と呼ばれるエリアが湾のどこかにあったとしても、それが何の後ろに付いているのか、湾全体を地形図で見渡しても見当が付かない。

 来馬川沿いの静狩と礼文華を結ぶ礼文華山道・その前身をruと呼び、r はy と音感の近似から相通が考えられるので、その道の後ろにある湾と言うことでru mak us moy[道・の後ろ・につく・湾]と呼んだのが訛ったかと考えてみる。蝦夷日誌の本文と蝦夷行程記の里程から、イメクシモィを静狩とエルエトゥフのほぼ中間の大きな湾と考えたが、ru mak us moyであったと考えると、天保3年の図取りとされるこの辺りの北海道測量原図のイメクシモの位置でも、湾と呼べるのかどうか分からないほど浅い湾ということになるが、旧礼文華山道の静狩側登り口のすぐ後ろにあたるので、ru mak usとは呼べそうである。室蘭本線が作られる前はもう少し深かったのかも知れないが入り江と考えるには入り込みが小さ過ぎることと、蝦夷日誌著者の松浦武四郎が校訂している安政3年刊の蝦夷行程記と同名の蝦夷日誌中の蝦夷行程記は享保年間の阿部照任の記録に基づくかと思われるので北海道測量原図より古そうだということで、池田実(2005)がポンモイとする湾をイメクモィと考えておく。北海道測量原図では当湾も明確に湾として描かれているが地名は付されていない。

 午手控にあるイメキヲナイは、その湾に注ぐ二つ谷の内の東側の、鞍部が低く来馬川流域からアプローチしやすそうな谷をru makke o nay[道・の後ろ・にある・河谷]と言ったかとも考えてみたが、他の資料に見られないことと、午手控に代わりに湾を指すと考えられる地名が出てこないことと、ヲの字がシの字と似ていることと、キとク、ナ行音とマ行音の音感が似ていることから、イメクシモィの訛ったものか誤認と考えることにした。


ポンモィ(未踏査)

松浦武四郎(巳手控):ホンモイ
永田方正:ポン モイ 小湾
私見:pon moy[小さい・湾]

 鼠の鼻トンネルの海側にある下記エルエトゥフの西の小さな湾のことと思われる。池田実(2005)の地図には、この付近に「ヒカタマ」と振られている。この湾は南東に開いているので、南西風を避けるということで、和名が「日方澗」か。


エルエトゥ(未踏査)

松浦武四郎(廻浦日記):イルモ岩サキ
永田方正:エル エト゜フ 鼠岬
現行:鼠の鼻(ネズミ岬)
私見:enrum etuhu[岬・の鼻]

 アイヌ語でエンルムen-rum[つき出ている・頭]は岬を意味する。etuも岬を意味するが他の地形を見ていると岬は岬でも岬に関わらず地形の「鼻先」のような気がする。鼠は辞典によってermuだったり、erumだったりする。また、日高の襟裳岬は単に地形としてのen-rumかと思われるのにネズミの伝説があり、地名を決めた基準はすぐに忘れられるのかも知れないとも思う。エルムはen-rumでネズミの鼻先の形状でネズミも意味するようだが、ネズミに限るものではなかったのではないか。ネズミが多いとか、ネズミ全身の型の岩があるわけでなく、ネズミの鼻先のように尖った形状を表す言葉がen-rumで、この岬の形状を表した地名だと考える。その先端部がenrum etuhu[尖った頭・の鼻]ではなかっただろうか。ネズミ岬と呼ばれているのも此処と思われる。

 池田実(2005)は上の地図に挙げたエルエトゥフより西のポンモィを挟んだ鼻の辺りを「ネズミの鼻」としている。航空写真(国土地理院)や衛星写真(GoogleEarth)で見ると、ポンモィの西の鼻の方が形が整って、よりネズミの鼻先のようであるが、地形図で見ると東側の鼻の方が高さがあり、海岸線の大まかな向きが90度折れる地点でもあるので、東側が本来のenrum etuhu(鼠の鼻)であり、拡充されて両方合わせてネズミの鼻とも言ったこともあったかと考えてみる。

 元はenrum etuhuであったと考えるが、松浦武四郎も永田方正も「ン」を入れていないので、「エルエトゥフ」と表記しておくことにする。


トゥカルンポル/トゥカリウポル(未勘)

松浦武四郎(午手控):トカリウシホロ トカリは水豹の事。ウシホロは穴の事。・・・むかし水豹の多く居りしと云事也
永田方正:ト゜カルン ポール 海豹ノ穴
私見:tukari un poru[手前・にある・穴]?/tukari us poru[手前・につく・穴]?

 穴なら確認しやすそうだと考えていたが、見つけていない。ピカウス海岸は海岸通しで通過するのが難しいので小幌駅から一旦国道に上がり、地形図記載のJR室蘭線鼠の鼻トンネル東口へ下りる歩道(殆ど廃道)を辿る必要がある。蝦夷日誌にこの辺りでのオットセイ漁が書かれており、今でも北海道内の一部でアザラシが見られるので、昔は海豹がこの海域にまで来ていたとも考えられなくもない気がするが、海岸を歩行できるビカウス西方から見て、崖地形により通過できないエルエトゥフ(鼠の鼻)の手前にある、「岬の手前にある穴」が真意でなかったろうかと考える。tukar[アザラシ]を使ったとされる地名はあるが、生態を映すテレビ番組を見ても、安全の為に見通しの良い陸地を選ぶ海豹が、陸上の穴に入るのか疑問を感じる。海中の穴なら地名を附けて呼ぶほど目立たないだろう。検証に行く際は穴の形態に注意したい。ピエカウシとエルエトゥフの間に、ごく浅い横を向いた一枚の巨岩の「窪み」があったが、少しporu[穴]というには浅過ぎる気がしたので断言できない。池田実(2005)によると、この辺りに天然洞窟があるらしい。


ピゥカウとピゥカウタラッキナィ

菅江真澄(蝦夷廼天布利):ヒヰフセ
阿武多場所様子大概書付:ヒイカウシ
今井八九郎(北海道測量原図):ヒヱカウシ(エルムエトゥフに振られる)
松浦武四郎(蝦夷日誌):ヒヱカウシ 大石有。少しの沢有。峠の下也
市川十郎(野作東部日記):稗加牛(ヒエカウシ)
松浦武四郎(廻浦日記):ヒヱカヽウシ
松浦武四郎(巳手控):ヒイカウシ
森一馬 他(罕有日記):(東からハラケナイの出崎に続けて)ヒカウシタラケナイの岬あり、又拾町余にてシツカリの岬あり・・・
永田方正:ピカ ウシ 岩上 岩上ニ家アル処
現行:ビカウス(辺加牛)
私見:piwka ous[石原・の周囲]、piwka ous ta ratki nay[石原・の周囲・に・下がっていく・河谷]

 室蘭本線上り線の「第一辺加牛トンネル」と「鼠の鼻トンネル」の間(下り線は「新鼠の鼻トンネル」と「新辺加牛トンネル」の間)の明かり区間の200mほど東側に、周辺とは明らかに様相を異にする海岸がある。20mほどの横幅で、周辺の崖下の黒く丸い砂利や巨岩とは異なる、赤みを帯びた角礫からなる5mほどの高さの台地が海岸となっている(下の写真)。また、この台地の上後方には、周囲の黒味の強い崖とは異なる、上部の白い部分が非常に目立つ25mほどの整った三角形をした明瞭な一枚の崖があり、ランドマークに十分なると考えられる。この台地の上に、家があったような整地した跡や家が建てられそうな所はなかった。現実の家がなかっただろうが、後方の三角形の崖において、最上部の茶色の部分を除外すれば、目立つ白い部分はアイヌ語のcise[家]の形と一致し(ニセコのチセヌプリのような形状)、これを「岩上に『家』ある」と永田方正は聞いたと考える。茶色の最上部は荒れた表面から、比較的新しく崩れて現れたと考えられ、昔は最上部が草に覆われて今より家型が明瞭であったかのではないかと思われた。

 永田方正の記述は、考えられるアイヌ語解の中に「家」を表す言葉の音が入っていないのに、岩上に「家アル」と限っている点が不審であった。しかし、この崖の模様が「家」ならばその意味が明瞭になる。


ピゥカウ発祥地

海岸に不釣合いな赤い角礫が
積み重なり、その上に
家型の顕著な崖がある

前面より見たピゥカウ発祥地

 永田地名解は後志の古宇郡の海岸に「ピイカ ウシ」と言う地名を記し、「立待(岬)」と訳し、「アイヌ此ノ岩石上に立チ鮭ノ来ルヲ待チテ之レヲ突キ捕ル処」と説明している。この説明が正しいなら小幌海岸のここも同じアイヌ語の音のようなので、人が主語のようである。piye ka o us -i[その石・の上・にある・ことを習いとする・所]と考えるべきか。だが、角礫の台地の上は足場が悪く、銛を突くのに適した地形とは思えなかった。或いはpiye ka us -i[その石・の上・につく・もの]で、チセ形状の崖を指したかと考えてみるも、それならcise ne pira[家・のようである・崖]とでも言った方が直接的で分かりやすい(或いはcise ne pesか)。カタカナでの音からpi[石]の所属形のpiye[その石]が用いられていると考えてみたが、その石とは何に所属する石なのか分からない。また、無数の角礫からなる台地を「石(pi)/その石(piye)」と言えるのかどうかも疑問である。

 天保3年図取りのこの辺りの北海道測量原図では「ヒヱカウシ」の名が「鼠の鼻(エルエトゥフ)」の位置に振られている。より古い史料から見ていく方が良い地名を考える原則からすると、エルエトゥフの元の名がピエカウシということになりそうだが、永田地名解の「岩上ニ家アル処」より、ビカウスの発祥はこのチセ形状の崖の辺りであると考えたい。北海道測量原図より古い記録に基づくと思われる蝦夷日誌に載る蝦夷行程記では、イルモ岩サキ〜ヒヱカウシが九丁二十間、ヒヱカウシ〜フヨノボリが六丁五十五間とされ、エルムエトゥフよりは家形の崖の下の辺りと考えた方が適当である。なぜ北海道測量原図で指す場所が食い違っているのかも考えなくてはならない。

 所属先の考えられない石(の台地)なのに所属形を用いたpiye ka[その石・の上]ではなく、チセ形状の崖の下のpiwka[石原]であって、この辺り一帯を指す地名ピゥカウpiwka ous[石原・の周囲]の転訛ではなかったかと考える。ousのo の音が落ちているのはアイヌ語の母音の連続を嫌う傾向で追い出されたと考える。ousのu の子音は声門破裂音ないし声門の緊張またはせばめで、ウははっきりした声立てとなる。廻浦日記のヒヱカヽウシは、元の音を伝えようとアイヌの人が敢えてo を発音したのを、松浦武四郎がオをアの長音のように捉えてしまった「ピエカーウシ」ではなかっただろうか。「〜の周囲」という地名ならピカウス立岩から「鼠の鼻」付近まで広がりがあり、北海道測量原図でエルエトゥフにヒヱカウシの名が付されたことにも説明が付きそうである。

 その音からpiwka us -i[石原・につく・もの]で、石原の上の家形の崖を指したかとも考えてみたが、既に石原に着目しているのに、その上の崖を「家形」と言うことも無く「もの」と呼ぶのは意味が無い。家形を含む崖の白い部分は一帯に続いており、特異なのは石原の方である。

 罕有日記に書かれたヒカウシタラケナイはpiwka ous ta ratki nay[石原・の周囲・に・下の方へ下がっていく・河谷]で、来馬川流域で国道沿いの186.0mの四等三角点「来馬川」のすぐ南の鞍部か、そこから150mほど西へ移動した所の南の鞍部から分水嶺を越えて海岸沿いのpiwka ousに下りていく沢を言ったものと思われる。どちらの沢筋がその名の沢なのかはっきりしないが、後者の沢筋の方が緩やかだが海岸に下り付く所に崖記号が描かれており、前者の沢筋の海岸に下りる所には崖記号がないので、海まで下り付きやすい前者がpiwka ous ta ratki nayではないだろうかと考えてみる。また、「ヒカウシタラケナイの岬」というのは北海道測量原図でヒヱカウシと書かれたエルエトゥフ(鼠の鼻)のことではないかと思う。

 ビガウス地区は室蘭本線の辺加牛トンネルの海側に当たっている。「辺加牛」は、ピゥカウへの当て字だろう。蝦夷日誌の「少しの沢」はトンネルの西口に小さな沢が滝になってあった。この沢はトンネルの上をコンクリの溝で流れて落ちており、トンネルが建設される前は現在のような滝ではなかったのかも知れない。この崖を小幌駅から陸上を経て見に行く場合、一旦、国道に上がって鼠の鼻トンネルの東口へ下りる地図に記載の道(殆ど廃道)が鼠の鼻に最も近づく辺りから、鼠の鼻の根元辺りにヤブ漕ぎで下りる。崖が続いていて下りられる地点は限られ、中々大変である。この廃道を鼠の鼻トンネル東口まで下りても、そこから海岸に下りる為には5mほどの懸垂下降を要する。登りも危ういが、ロープを残置しておけば登れる。


ピカウス立岩

ピカウス海岸の様子 

プヨヌプリ

松浦武四郎(蝦夷日誌):フヨノボリ
市川十郎(野作東部日記):富與登(フヨノボリ)
松浦武四郎(廻浦日記):フヨノホリ
永田方正:プヨヌリ 穴山 岩ニ洞門アリ通行スベシ
私見:puy o nupuri[穴・つく(あく)・山]?

 「窓岩」と呼ばれている。但し、いつでも通行スベシな穴ではない。干潮時に限られる。窓岩/メガネ岩と呼ばれるという。「洞門の岬」とも言ったようだ。罕有日記の「ハラケナイの出崎」も此処と考える

 「山」と呼ぶには、地面の高まりでないことに疑問が残る。もしかしたら後半はnupuriではなかったのかも知れないとも考えてみる。


この尖った山頂らしきものを持つ部分が
プヨヌプリ(穴があいた山)と思われる。
西側から撮影

窓岩アップ
この穴は小幌駅から岩屋観音へ至る道や
文太郎浜からも望むことが出来る。

その2(ピリカからエサマニとエサマニカル)

参考文献
1)山田秀三,北海道の地名,北海道新聞社,1984.
2)伊能忠敬,伊能図大全 第1巻 伊能大図 北海道・東北,渡辺一郎,河出書房新社,2013.
3)北海道庁地理課,北海道実測切図「寿都」図幅,北海道庁,1891.
4)池田実,胆振の旧道を訪ねる1,pp83-104,8,アイヌ語地名研究,アイヌ語地名研究会・北海道出版企画センター,2005.
5)今井八九郎,北海道測量原図(東蝦夷地),東京国立博物館蔵デジタルコンテンツ
6)松浦武四郎,秋葉實,蝦夷日誌 校訂 一編,北海道出版企画センター,1999.
7)榊原_蔵・市川十郎,野作東部日記,1855-56.(北海道立図書館蔵原本北海道総務部行政資料室所蔵の複写本)
8)松浦武四郎,高倉新一郎,竹四郎廻浦日記 下,北海道出版企画センター,1978.
9)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集4 巳手控,北海道出版企画センター,2004.
10)松浦武四郎,秋葉實,松浦武四郎選集5 午手控1,北海道出版企画センター,2007.
11)永田方正,初版 北海道蝦夷語地名解,草風館,1984.
12)中川裕,アイヌ語千歳方言辞典,草風館,1995.
13)田村すず子,アイヌ語沙流方言辞典,草風館,1996.
14)金田一京助,増補 國語音韻論,刀江書院,1935.
15)今井八九郎,測量図取年記,東京国立博物館蔵デジタルコンテンツ
16)阿部櫟斎,蝦夷行程記,近世紀行文集成 第1巻 蝦夷篇,板坂耀子,葦書房,2002.
17)萱野茂,萱野茂のアイヌ語辞典,三省堂,1996.
18)小幌付近,p28,1,北海道の釣り,遠藤釣具店,1964.
19)知里真志保,地名アイヌ語小辞典,北海道出版企画センター,1984.
20)菅江真澄,内田武志・宮本常一,菅江真澄全集 第2巻,未来社,1971.
21)重松熊五郎,阿武多場所様子大概書付,東蝦夷地各場所様子大概書,新北海道史 第7巻 史料1,北海道,北海道,1969.
22)森一馬・高井佐藤太,罕有日記 巻七,1857.(函館市中央図書館蔵写本)
23)榊原正文,私のアイヌ語地名調査,榊原正文,2000.
24)斎藤豊,噴火湾の秘境 小幌海岸の釣り,pp52-54,24(11),北海道のつり,水交社,1994.
25)斎藤豊,噴火湾の秘境 小幌海岸の釣り その2, pp61-64,25(12),北海道のつり,水交社,1995.



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(2009年4月16日上梓(親頁から分割) 2017年4月23日その1〜4に再編・改訂)