尾立岳の位置の地図
尾立岳 (1061m)
おたてだけ

hiroyasuさんのご報告


★山名考

 明暦の頃の作成と見られる屋久島大絵図に「尾立山」とあるのが山名の記録として古いようである。読み方は「屋久島の山岳」に「おたてだけ」とある。


尾立沢〜小杉谷ルート推定図

 北東面を尾立沢が流れている。多くの山の名は川の名に基づく。薩摩藩の藩の山は「鹿倉山」あるいは「御建山」と呼ばれたといい、「屋久町郷土誌」は尾立岳は御建山ということではないかとしているが、屋久島での御建山の領域は安房川流域では尾立岳よりずっと奥の奥岳主稜線まで広がっていたようである。御建山の手前の特別目立つわけでもない尾立岳を「御建山」と呼ぶことは無かったのではないか。御建山とは関係ない尾立沢の源頭の山/岳の意と思われる。

 尾立沢は、千頭川から入ってしばらくと、最初の二股の右股は安房川本流と同じ向きに流れている。左股に入って次の二股の右股も、安房川本流と同じ向きに流れている。この流れ方を言う安房川の「裏手沢(うらてさわ)」か「裏処沢(うらとさわ)」が、尾立沢の語源のような気がする。

 単純に過ぎるような気もする。更に考えたい。

 屋久島大絵図には安房川右岸の山手から千頭川下流の辺りへ下り付く道が描かれているように見える。上の右股から山をを越えると、安房川本流の中島権現岳の辺りの屈曲をショートカットして荒川の尾立ダム湖に出る。荒川を渡ってジトンジ岳の南の鞍部を越えると太忠沢に出る。太忠沢から安房川に下りれば谷の広がる小杉谷は近い。遠回りな上に川の規模が大き過ぎて通行が面倒な安房川の裏手を繋ぐルートの入口が尾立沢だったのではないかと考えてみる。

 太忠沢も渡ってもう一つ山越えして次の沢から小杉谷に入っても良いような気がするが、次の沢の名前が屋久島の「山と高原地図」に載っていないのは、使われなかったと言うことなのかも知れないと考えてみる。ジトンジ岳の名は推定裏手ルートの鞍部のある尾根であり、鞍部を越えたらそのまま安房川まで出ることを指す、「出(で)・撓(たわ)・嶺(ね)」の転訛だったのかもしれないとも思う(屋久島の奥側にあたる栗生の方言ではデがジェのように発音されるようである。n と d 、u と n は日本語で相通がある。ジェタゥヂを経てジトンジになったと考える。また、或いは撓(たわ)ではなく垰(たお)か。)。安房鹿倉はこの小沢の左岸の尾根までで、現在の小杉谷と呼ばれる辺りは楠川鹿倉と宮之浦鹿倉であったようである。安房から来るのは安房鹿倉の荒川左岸と太忠沢流域が中心で、連絡路くらいはあっただろうが、現在の小杉谷の辺りまではあまり入らなかったのかも知れないとも考えてみる。

 だが、尾立沢の通行が、それほど勾配はきつくないようだが容易かそうでもないのか、通行できたとしても2回の山越えで安房川本流筋を辿るよりどれほどの時間の短縮になるのか、分からない。尾立沢が昔ルートであったとしても、木材が搬出される頃には沢沿いから周辺の山腹道や尾根道へと切り替えられたと思われる。

参考文献
太田五雄,屋久島の山岳,八重岳書房,1997.
屋久町郷土誌編さん委員会,屋久町郷土誌 第1巻 村落誌 上,屋久町教育委員会,1993.
屋久町郷土誌編さん委員会,屋久町郷土誌 第3巻 村落誌 下,屋久町教育委員会,2003.
太田五雄,屋久島 種子島(山と高原地図66),昭文社,(1997).
太田五雄,屋久島 宮之浦岳(山と高原地図59),昭文社,(2004).
上村孝二,屋久島方言の研究 ―音声の部―,九州方言考5 鹿児島県(日本列島方言叢書27),井上史雄 他,ゆまに書房,1999.
金田一京助,増補 国語音韻論,刀江書院,1935.



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(2004年11月19日上梓 2017年7月30日山名考追加 2023年10月21日改訂)